越えられるという実感

週末は、サイトを一緒に立ち上げてくれた友達と上島珈琲で会いました。
○○珈琲と店名が付いていても、珈琲が飲めないことが多く、いつも悔しかったのですが、黒糖ミルクコーヒーという存在を知り、注文して飲んでみたら泣きたくなるぐらい美味しくて、肌寒い日に沁みた一杯でした。

大切に立ち上げてくれたサイトだから、大切に育てていきたいという想いを感じ取ってくれた、ゆったりとした時間の流れ。
プログラマーの友達は、コンピュータ言語で、私は自分の言葉で表現をしていく。
届けたい気持ち、感謝の気持ちは、最初に打ち合わせをした頃のままです。

帰りは、自宅近くの最寄り駅まで夫と息子が車で迎えに来てくれていました。どこに行っていたか尋ねたら、車で30分程の夫の実家だということが分かり・・・。
複雑な気持ちになり、ぐっと堪えてこっそり泣いたお風呂の中。
母や姉にとても会いたい自分がいることを痛感させられた、とても苦しい夜でした。

例えば、長く付き合っていた恋人がいて、相手の良さも分かっていたから別れを切り出せず、それでもずっと辛い思いをしていた人がいたとします。勇気を出して、好きだけど別れた。別れて楽になった。こんなに辛い思いをしていたし、我慢もしていたし、すごい時間を使っていたのだと、怒りや悲しみが別れた直後は込み上げて、これで良かったんだと思う。
でも、時間が経ち、マイナスの感情よりも楽しかった思い出が蘇り、仲の良いカップルを見ると、寂しくなり、本当は愛されていたんだなと思った時、会いに行ってしまおうかなんて思ってしまう恋愛。またよりを戻しても同じことを繰り返すのが分かっているからぐっと堪える。
そんな経験に少しだけ似ているのかもしれません。

それが37年間という想いが詰まった年月なら、親子や姉妹という血の繋がった関係なら、なおさら。怒りよりも悲しみよりも、良い所を沢山思い出す、でも会わない方がいい。

夫が、息子を連れてたまたま実家に行っていたことで、何事もなく日常生活を送り、無意識のうちにぐっと抑えていた気持ちが溢れ出しました。
今は、耐え時だ。離れた直後に、怒っていたり、楽になったと思えていた頃の方がずっと良かった。
でも、こういう時期を認識して、自分の力で乗り越えて、相手に変わってもらうことを望むのではなく、私自身が変わらないと、結局同じところに戻ってしまうことも、これまでの中で十分過ぎるぐらい理解しました。

出口のないトンネルなんてなくて、底にはちゃんと底辺があって、いつまでも苦しいことが続くわけじゃない。そのことも知っています。

だから、優しすぎる部分の<too much>を、自分に向ける。
根本は変えずにもっと強くなれたら、越えられると信じたい。
思考が複雑にしているだけで、答えはもっとシンプルなのかも。出口、意外と近くにあったりして。