母が無事に退院し、ほっとして少しだけ力が抜けました。色々な気持ちが渦巻く中で気を張っていたことを改めて痛感。夏休み中ということもあり、息子も常にそばにいたので、病院への往復も現地でももちろん一緒。でも、それがいい感じのクッションにもなってくれて、有難くもあって。
そして、退院後に母と改まって話す機会があり、本題を持ってこられて動揺しました。「あなたはまだ私のことを恨んでいる?」と。そんな話をする心の準備はできておらず、まだそのタイミングではないと思っていたのですが、結論を綺麗にまとめて話すよりも、途中の気持ちを伝えることも大切な気がして、言葉を選びながら伝えました。
「手術ということが無ければ、まだ会える状態には無かった。それでも一大事だと思ったから、娘としてやれることをと思ったよ。ただ、お母さんは色々な愛情不足から、私しかいないと全てにおいて頼り、それによって疲弊してしまった。精神疾患では無かったのかもしれないけど、外的要因からの気質はどうしてもあったのだと思っているよ。そのことは認識してもらえたらと思う。私が何か気に入らないことを言うと、相当言われた。でも、そういう時は普通の状態ではなかったから、多分半分も覚えていないと思う。そのことを責めても仕方がないと思っている。どうしようもない不安感や、愛情を私に求めて、必死だったのだと思うから。それが物心ついてからずっとだった。そのことを、この短い期間で消化しろというのはなかなか難しいよ。父と姉と三人で、会議室で話した時もかなり修羅場になって、お母さんを守ろうとすると、どうしても姉とぶつかってしまい、かなり言われた。根本的に考え方が違うこともよく分かったし、その事実も受け入れていきたいと思っているよ。お母さんのことは恨んでいない、でも今はまだそっとしておいてほしい。自分の中で解決していきたいと思っているから。」
母は泣きながらその話を聞いていました。泣きたいのはこっちだよと思いながら、いつもこうだったよねとも思う。母が先に泣くので、私は守る側に回り、自分の感情をぐっと堪えてきた。わっと怒り狂って、泣いてしまった方が楽になったのかな。私のこれまでを返してと言えば良かったのかな。それも、何か違う気がしました。苦しかったけど、穏やかな時間も流れていた。人の優しさを知った。家族じゃないのに家族のように接してくれる方達がいた。あなたなら大丈夫と自分のことのように泣いてくれた。誰にも話せなかったことを、聞いてくれる人達に沢山出会ってきた。こういうのを、幸せと言わないなら、なんて言うのだろう。
高校時代の男友達が、社会人になり、「亡くなった父さん、病死だと聞いていたのだけど、俺が二十歳になった時、母さんから実は自殺だったと聞かされた。俺も姉貴もまだ小さくて、なんで俺達を置いて行ったんだと、今もずっと苦しんでいるよ。」と話してくれました。お母さんは亡くなったご主人のご両親と何も変わらず同居。「お母さん、必死で子供二人を孤独にさせない為に守ろうとしてくれたんだね。なかなかできることじゃないよ。そして、お父さんのことを恨んでいたら、その家に住んでいなかったんじゃない?夫婦の絆をとても感じる。余程の理由があったのかもしれないよ。結婚して、子供を授かったら、お父さんを許せる日が来てくれたらいいなと思っているよ。同じ立場になって、初めて気づくことに救われるかもしれない。そんな日を願っているよ。」そういった話をしたら、目を潤ませながらそっと私に微笑んで、伝えてくれました。そうだねと。
本当に理解ができるのは、まだまだ先かもしれない。それでもそんな日は来る。
それが今ではないだけ。