雨と夜の中で

今日も明日も雨予報、でも育ち盛りの息子の夏休み中ということもあり、早めに食材を買いに行こうと、小雨決行で自転車に乗って出ました。なんとかお店に着き、大量に購入した後、荷台にも食品をくくりつけレインコートを羽織りまた走り出すと、雨と風が強くなり困惑。それでも、止みそうになかったので、フードが飛ぶのもお構いなしで走らせることに。ようやく自宅に着いた~と自転車を降りて荷台を見ると、お米だけ残っていて、保冷バッグの食材がない!と慌てました。よく見ると、紐が途中で緩んでしまっていたことが分かり、風雨で落ちた音も聞こえなかったよう。軽くショックを受けながらも、玄関のドアを開け息子に説明することに。「途中で荷台にあった食材を落としてしまったみたい。来た道を戻って探してくるよ!」ずぶ濡れになってこちらが伝えると、事の重大さに気づいた息子が伝えてくれました。「ボクも行く!」普段はわがまま炸裂する時もあるのだけど、重要な局面では助けてくれることを知ってるよ、その気持ちをありがとうと心の中で思い、アイスなどを冷凍庫に入れてほしいから自宅にいてねと伝え、さっと家を出ました。息子が好きなキウイやジュースなど色々入っているんだよな、見つかる確率は半分と見た、とりあえず諦めないでいようと思い、また濡れながら来た道を戻りました。すると、信号待ちをしていた先にそれっぽい塊を発見!青になった途端、急いで取りに行くと、本当に落とした食材が見つかり安堵しました。よく見ると、警察署のそばで、落とした場所も良かったのかもしれないなと笑えてきて。安心しながら再度自宅に帰ると、息子も一緒に喜んでくれました。「そういえば、お母さんこの間ね、また誰かのカギを拾って届けたことがあったの。小さなことなんだけど、それがもしかしたら今回の発見に繋がってくれたのかもしれないね。そういうものだなって思う時があるよ。」そう話すと彼も納得している様子。幸運のキウイ、大事に食べようね。また知らず知らずのうちに、誰かを助けているのかもしれない。

その後、なかなか行けていなかった息子の歯医者があったので、まだ雨は降っていたものの、強行突破でお互いにレインコートを着て家を出ました。が、集中豪雨のような状態になり、さすがに判断を誤ってはいけないと思い、雨宿りができる所へ一旦避難。それでも止みそうになかったので、だめ元で父に電話をすることに。それでも出なかったのでどうしようかと思っていると、すぐに折り返しの着信があり状況を話しました。「忙しい時にごめんね。今日Rの歯医者で家を出たんだけど、かなり濡れてしまってまだ自宅近くにいるから、お父さん車で送迎してくれないかな?」「おお。わしも外にいたら濡れちゃって今帰るところ。15分ぐらいで行く。」話が早いなと有難くお願いすることに。そして、慌てて帰り、二人で着替えて父の車に乗り込みました。そうしたら、急にある日のことが鮮明に蘇ってきて。実家を出て、一人暮らしを始めた父、それでも用事がある度、時々私の携帯に電話がかかってきました。その日も土砂降りの雨で。「S、今日大雨で早く帰ることになったんだけど、タクシーもバスでも帰れないかもしれないから、名古屋駅まで迎えに来てくれないか?」そう言われ、時間があったので車で名古屋駅のロータリーまで迎えに行き待っていました。すると、スーツを着て颯爽とやってきた父。「悪いな。」「ううん。おかえりなさい。お父さん、今どこの支店にいるの?」「○○支店。」「遠いな。また転勤?」少し前に聞いた支店とは別のさらに遠い場所でした。転勤間隔もどんどん短くなり、早く辞めさせたいんだろと小さく笑った父。隣でハンドルを握りながら、チクリと胸が痛みました。「新しい支店に慣れた頃にはもう転勤だ。」私に小さく弱音を吐いた、でも視線は前を向いていて。支店長代理になった後、さらなる高みを目指していた、でも銀行の合併などにより端に追いやられた。プライドもズタズタ、それでも、辞令が出るまで与えられた仕事を遂行するという父の精神はまだ輝きを失っていませんでした。あのね、お父さん、肩書が全てじゃないと思っているよ、収入も。若い女性が好きだし、ギャンブルもするし、家族のこと顧みないしやりたい放題だなと思う時もある、でもね、仕事にかける思いは何一つブレない。そんなお父さんの姿、忘れないでいるよ。土砂降りの雨の日、悔しさも虚しさも寂しさもまといながら助手席に座っていた父。何十年も経って、改めて気づいたことがありました。名古屋駅のロータリーには、確かタクシーが何台も停車していた、あの日の父は娘の私と話したいと思ってくれたのかもしれないなと。そして、言葉にして伝えておけば良かったと今さら思って。「お仕事、お疲れさま。」と。母も姉も祖父も、佐賀の祖父母も、誰も知らない父の土砂降りの一日を知っている。きっと本人も忘れているだろう、でも私は覚えている。生きることの苦しさも、決して萎れることのない気持ちも見せてもらった日だから。

歯医者が無事に終わり、また車に二人で乗り込むと、まだ大雨の運転中に父が話し始めてくれました。「先週、また佐賀に行ってきたんだよ。」「飛行機?新幹線?」とこちらが手段を聞くと、意外にも車という返事があって。AでもなくBでもなくCか、それもなんだか父らしい。「大変だったでしょ。」「おう。行きは、夜の10時に出て途中で休みながら、鳴門の渦が見たくて四国に渡ったんだよ。それから、讃岐うどんを食べて、道後温泉のあたりまで行って、桂浜の方まで回って、4県行くことができた。四国に初めて行ったんだよ。」「え~!そうだったの?!私ね、大学4年の卒業旅行で全部回ったよ。」その話をすると、すでに父は知っていて、在学中に土産話をしていたかもしれないなとぼんやり思い出しました。23年前に自分が見た景色をお父さんも見たんだねと思うと、感慨深くて。その後、四国から九州までフェリーに乗り大分に着いたそう。佐賀の実家に顔を出し、今度は島根に立ち寄ったと。「ずっと山陰地方にも行ってみたかったんだよ。」その話を聞き、父のささやかな夢の会話を思い出しました。「いつか47都道府県に足を踏み入れたいんだ。今は時間がないけどな。」「いいね!私も一か所ぐらい付き合うよ!」確かこの会話も、父が一人暮らしの時、地理好きのお父さんらしい発想だなと思っていました。ひたすら走り傷を負った銀行員時代、6人家族の2世帯住宅で、祖母が他界し、姉は大阪に就職し、父もまた一人を選んだ。彼女ができても結局ひとりが好きな父は、娘の私に老後の何気ない夢を語ってくれました。1県だけでもそばにいられたらとその時思った、それがね、20年も別居をしていた夫婦が同居を始め、喧嘩しながらも、何県も助手席には母がいて、同じ景色を見ていたのだから、人生って面白いなとしみじみ思わせてもらって。桂浜で何を思った?ひとりじゃなかったね、お父さん。人生ゲームをすると、いつも株券を大量に買い、私生活をゲームにまで持ち込むな!と子供ながらに思った幼少の頃、そんな父が母を乗せて日本各地を回っていた。「お父さん、今日はありがとう。」別れ際、この言葉の意味、伝わっただろうか。あなたの生き方を見せてくれてありがとう、もっと沢山の想いがここにある。