そういえば、息子の社会見学前、持ち物の準備をしていると敷物がいることが分かりました。今年のヤクルトキッズ会員特典でつば九郎の敷物を選んでいたので、二人で準備をし大盛り上がり。「この敷物を持っているの、絶対にRだけだよ。隣の○○先生(広島ファン)も気づいてくれるかもしれないね!」とわいわい。その先生が5年生の担任でいてくれた時、外で作業をする際、首にかけるタオルが必要でヤクルトのタオルを渡し、伝えました。「学校に持っていくものだから名前を書いてね。」「このタオルを落としても、絶対に先生はボクのだって気づいてくれるよ~。」たしかに!と思いながらも、とりあえずタグにファーストネームだけ記入。そして、学校に持たせ、実際に首にかけて作業をしていると先生がすぐに気づき、笑ってくれたよう。R君、どこまでもヤクルトファン!そんな先生の笑い声が帰宅した息子を通し聞こえてくるようで、嬉しくなりました。広島カープの試合を観る度、先生のことを思い出すだろうか。一緒に半泣きし、笑い合った時間を。
父の手術がひとつ落ち着き、改めて話の内容を思い出してみました。それが具体的にどういった内容だったか聞いてみると答えてくれて。「最初は、前立腺がんの疑いが出て、詳しく検査していたら、たまたま腎臓がんが見つかってそっちの方から手術することになったんだよ。血管に近い場所にがんがあったから難しい手術になるかもしれないと言われていたんだけど、早く気づいたからまだ小さくて悪い所だけ切って温存することができた。」その話を聞いて、ネネちゃんの言葉が蘇ってきました。お父さんは強運の持ち主。何か父は運を手繰り寄せるようなところがある、その力が今回も発揮されたのかもしれないなと改めて思って。そして、姉が前に話してくれた仮説は当たっているのではないかと痛感しました。「お父さんね、養子に入って名字が変わったでしょ。おじいちゃん達と同居で大変なことはあったけど、○○の姓になったことでお父さんの運気って上がった気がするんだよ。旧姓のままじゃなくて良かったんじゃないかなって。今の名字の方がしっくりくるの。」母と別居をしたのは私が二十歳の時。大学を卒業の頃に、父が離婚を考えているのが分かりました。それでも、なんだかんだで別居したままの婚姻関係は続き、二十年もの時を経てまた同居することに。その間、祖父の他界がありました。祖父は、事故に遭ってから入退院を繰り返し、それでもものすごい生命力で生き抜いてくれて、沢山の仲間を見送る側に。予め母が葬儀費用を払っていた為、随分盛大な葬儀になり、椅子がかなり余っていたので母に事情を聞いてみると答えてくれて。「おじいちゃん、何度も危ない時があってそれでも長く生きてくれたの。その間に、親戚や囲碁仲間がどんどん先に逝っちゃって、お母さんが思っていたよりも人数が減ってしまったの。逆にちょっと大きすぎたかなって思ったんだけど、おじいちゃんの在所を守ってくれているおばさまがね、よくここまでの立派な葬儀をやってくれたって伝えてくれてね。」その話を聞き、何とも言えない気持ちになりました。祖父は生き抜いたんだな、今度は自分だと思いながらも仲間を見送り、その度に一人で涙し、これまでの人生を振り返っていたのではないか。そんな祖父を知っているおばさまは、人数ではなく○○家を代表していい葬儀をありがとうと母に伝えてくれたのではないかと思いました。その時の喪主は、父。別居しているのは誰もが知っていて、そんな中でも立派に喪主を務め、その姿が余計にみんなの涙を誘いました。その父が、ずっと同じ姓を名乗り今に至ってくれていること、それはやはり大きな意味があるのだと感じています。
中学時代、ソフトボール部のエースピッチャーとキャッチャーの友達と仲が良く、たまに三人で一緒に帰っていました。二人は臨時で招集される陸上部にも入っていて、一緒にトラックを走ることもあって。すると帰り道、半分以上冗談で私をソフトボール部のリリーフピッチャーに誘ってきました。「Sってサウスポーだよね。」と正捕手の友達。「いつも私一人で投げているから抑えのピッチャーがほしいんだよ。」とエースの友達。彼女達は二人ともとてもさっぱりしていて、信頼関係の中で試合を運ぶこのバッテリーが好きでした。それでも、みんなが築いたものを自分が壊すわけにはいかないと思い、もちろん断ることに。テニスとソフトボールの部室は隣同士、だから自然と帰宅時間も重なり、先に終わった時は二人の投球を制服に着替えて見ていました。いつも試合で完投する友達、1年生の時からレギュラーで他校の先生も一目置く絶対的エースでした。そんな彼女の速い球を、がっしり受ける安心感をもたらしてくれるのがもう一人の友達。彼女達にしか分からない阿吽の呼吸があり、間合いがあり、お互いをよく知っているからこそできるパフォーマンスがあるのだとその空気感が好きでした。テニスとソフトボールは部活を決める時に迷っていた、結果的にテニスを選んだのは姉の後ろ姿を見てきたから。そして、チームプレーよりも個人プレーの方が自分は向いているだろうとなんとなく感じていたから。でも、時が経ち誘ってくれて嬉しかったよ、大好きなバッテリーのあなた達だったからこそ。リリーフで登板し、試合で運よく抑えられたら、マウンドに駆け寄ってきてくれただろうか。そんなイメージがまた少しだけ自分を上向かせてくれる。
愛知の地、そこに歩いてきた足跡が沢山あって、家族の歴史もそれはそれはいろんな色が混ざり合っていて。離れてみると、恋しくもあって。幸運、実はいっぱい拾っていたのだと気づいた。だから、やっぱり涙は養分、心の中で自分だけの花を咲かせよう。