マブダチK君の誕生日に、おめでとうのメッセージを送ると返信がありました。『毎年ありがとう。いつも誕生日が来てSからお祝いの言葉を貰うと高校生の楽しかった日々を思い出すよ。毎年幸せな平凡な誕生日を迎えられるのもSや他の周りの人に支えられてのことだと実感してるよ。またいつか、いい歳したオッサンとオバサンで語り合いたいね~。』その文面を読み、彼の中の一番根っこにあるのは感謝なのだと改めて思いました。それはおばさんが注ぎ続けた愛でもあって。同じ高校の制服を着て、公園に立ち寄り、日が暮れるまで語り合っていた日々。「約束の時間が過ぎると、弁当箱を自分で洗わないといけないんだよ。」「そのルール、なんだかいいね!」「よかね~よ。お前と話していたら時間過ぎた!」「え?私のせい?!」「そうだよ。Sと話していると時間忘れる。」そんななんでもないひとときが、いくつになっても優しく思い出されるなんてね。時は、いつも穏やかに巡っていく。50代の再会は何を話そうか。
姉とのカフェの後、佐賀の祖母が大切に持っていたプリクラを私もまだ持っていたかもしれないと、古い手帳を取り出すとそこには若かりし頃の姉妹が貼ってありました。それをスマホのカメラで撮り、ネネちゃんに送信。すると返事があって。『四半世紀前のプリクラ。この後から家庭崩壊したね。Sちんはトラウマまだ残りまくりだよね。私も佐賀一緒に行けてよかったよ。1人だったら無理でした。中学生活落ち着いたらまたお茶しよ。昨日はお声がけありがとう。』なんだろうな、どこまでも彼女らしい。家庭崩壊というワードを、前の姉は使いませんでした。その言葉を使えば、渦中にいる妹がもっと苦しくなるから。少しずつ自分が置かれていた状況を理解し、そこから抜け出しつつあるSちんだから、もう直接的な表現を使ってもいいと思ったよ。そんなメッセージを感じました。そして、数々のトラウマはバレている!1人で佐賀に行けなかったというのはきっと違っていて、ネネちゃんは私がいなくても向かっただろうと。福岡空港の長期出張の時、おばあちゃんに何度か会いに行ってお世話になったと嬉しそうに話してくれたことがありました。そんな彼女がお別れをしに行かない訳ない、その時どれだけ癒されたか知っているからこそ。一緒に行けて良かったと思っているのはこちらの方だよと、微笑みたくなりました。そんな姉から、ひとつ気がかりな話を聞いていて。都内で働いていた父は、会社の都合で退職することになったそう。手術後も早くに復帰し、術後の後遺症の中でも遠距離通勤を頑張っていたのは知っていたので、胸が痛くなって。今の私にできることを考え、父と母の誕生日、そして結婚50周年のお祝いに彼らの名前が入った湯呑を郵送でプレゼントすることにしました。すると後日、父からメッセージが。『湯呑みありがとう。今月で会社退職したため毎日暇です』その文面を読み、思わず吹き出してしまって。最後の一文、私にしか伝えてこない気持ちだろうなと。家庭崩壊の時、実家の応接間で両親と大阪から来ていた姉と私の4人で話し合いが行われました。それはもうあり得ない程の険悪で、一歩間違えたら傷害事件になりそうな状態でした。父は激怒し、母は癇に障ることをわざわざ言って大泣きし、姉は冷めきっていて。その時、私は父と母の辛さに寄り添いました。「まだ大学生の私に何ができるだろうと毎日考えていたのだけど、大して何もできなくて、でもみんなが苦しんでいるのが分かるから何とかしたくて・・・。お父さん、銀行で辛いよね。どうしたい?」ポロポロ泣きながらそう伝えると、父の怒りはゆっくりと沈んでいき、涙が一滴こぼれたような気がしました。父の心に届いてくれたんだなと。その後、別居後の話は父と私で進めることに。これまでのこと全部をすっ飛ばして、あの時の父が唯一開けてくれた扉の一番苦しい気持ちの隣にいようと思いました。本当は寂しかったんじゃないかと。ここにいるよ、お父さんがバンカーとして戦って傷を負っていること知ってるよ、それを伝えたかったのだと。
それからも、沢山のどろどろがあり、それでも銀行員として全うし、関連会社に出向となり、定年になって関東で母と同居。そして燃え尽き症候群になった後、すぐに従弟の会社で経理として働き始めました。あれから5年、手術の時以外休むことなく、やっぱり仕事に対する姿勢は尊敬に値するなと思っていたら、退職して毎日暇ですって。これはもう笑うしかない。『佐賀の有田焼の湯吞みだから、お母さんとゆっくりお茶でも飲んで、二人の生活を楽しんでね。お父さんのこと、姉から聞いていたよ。これまでの繋がりや、お父さんの経験や人脈でまたいい仕事のご縁があればいいなと祈っているよ。今は体を休めて、余暇を楽しんでね。Rも私も、二人の穏やかな暮らしを願ってるよ。』そう伝えると、『ありがとう』とひと言だけ返事があって。この言葉、何色に見える?私にはこれ以上にない柔らかな色に感じました。有田焼を選んだのは、佐賀の祖父母をどんな時も思い出してほしくて。そこは、お父さんの故郷だから。そして私は、父が歩いてきた道を知っている。
いろんな気持ちが交錯し、いつもの夜になりました。息子は、つば九郎を支え続けてくれた社員スタッフさんが亡くなって以来、毎晩くみちゃんとつば九郎のぬいぐるみを抱え、自分の部屋で一緒に寝ていて。寂しいとか悲しいとか言葉に出さなくて、でも、心の中で沢山の気持ちを抱えているんだなと。大学4年になり、心理学をもっと深く学びたくなり大学院を考えたこともありました。それでも、そんなことを言っていられるような家庭環境ではなく見送ることに。その話を子供ができてから姉に話すと、後から伝えてくれました。「Sちんが自分を犠牲にして関東や関西の大学に行くことも諦めたのに、大学院に行くことさえ諦めていたかと思うと、どれだけ辛い中にいただろうと思ったらさすがに寝られなかった。今すぐ行きなさい!お父さんやお母さんに出してもらって、Sちんの夢叶えようよ。」いやいや、小さな子供いるしと思ったら、極論過ぎる姉の話に笑えてきて。その気持ちだけで十分よ。そして、心理学はのんびりと学び続けていて、諦めは悪いんだ、それはネネちゃんもよく知っていて。自分の痛みと向き合おうか、そう思えたから2017年からここにいる。