強さとは何か

怒涛の年末年始、分かってはいてもいろんな大変さがあり、終わってほっとしています。息子が大好きなマインクラフトの近くのお店が無くなると分かったので、年末行ってぬいぐるみを買ってきました。そして、自宅に帰るとぽつり。「ボクの家族が増えた。」と。その言葉を聞き、沢山の気持ちがこみ上げて。いっぱい辛い思いをさせてしまったね、でも絶対にこの生活を守ってみせる、二人の絆は強いんだ。息子よ、幸せになれ。いろんな気持ちを持っての年越しになりました。そんな中、マイクラのゲームで毎晩のように合流してくれた彼の友達、大みそかは幼なじみのD君がマイクラからあつまれどうぶつの森に変わっても、ずっと息子のそばにいてくれたよう。一緒に年越し、二人の変わらない友情に涙が溢れそうになった優しい新年の始まりでした。幼稚園の制服からランドセルに変わり、中学の制服になるまであと3か月。

そういった中、相変わらず母から不機嫌だと分かるメッセージが入り、4日にご挨拶に行くことになりました。色々な感情が渦巻きそうになるのだけど、楽しいお正月にしようと思い立ったことがあって。「ねえR、元旦に映画へ行かない?ちょっと観たい映画があるんだよ。」「どんなの?」「はたらく細胞。」そう言って予告編を見せるとすっかり乗ってくれました。当日の朝、お年玉を渡し、年越しちゃったそばとプログラマーのMさんから頂いたうなぎを食べ、自宅を出ることに。映画館に着くとファーストデーで安かったこともあり、すごい人で。そして、ポップコーンとメロンソーダを買い、席に着いて映画を楽しみました。その後、面白かったね~とわいわい帰宅。こんなお正月もいいね!そして翌日、またマイクラのお店に行ってメンバーを増やした後、毎年恒例のスケートへ。息子のスケートが上手くなっていて、その成長に胸が熱くなりました。大学在学中、仲良くなった男友達がスキーに誘ってくれた時のことが自然と思い出されて。日帰りで岐阜まで行き、往復車で送迎してくれて気持ちのいい天気の中、ゲレンデを笑って滑りました。その友達は、ナゴヤドームのバイトでどうしても人が足りないからと誘ってくれた仲間で、異性の友情をとても大切にしてくれていて。今、どんな人生を歩んでいるだろうか、ふわっとキャンパスの匂いがしました。
次の日は、地元の神社に初詣へ。年男の息子は、くじを引くと大吉で歓喜。そして私は中吉で、利益は少ないが損はしないと書いてあり、なんだか笑ってしまって。その後、広い公園へ行き、息子のラジコンを操作しながら長い距離を散策しました。その途中で、敬語を使った母からの凍てつくメッセージが。何でもっと私のことを大切にしてくれないの?そんな気持ちが行間から読み取れてしまって。これは一体どうしたものかなと思いながら、息子と自転車を走らせ近くのスーパーまで行くと知っている人が。「お父さん!」「おう!」「明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。」と二人で伝えると笑ってくれました。その時、自分の中でぐちゃぐちゃになってしまいそうな心がすっと楽になるのが分かって。「明日11時過ぎに行くね!」「分かった。R、これで好きなものでも買え。」そう言って千円札を本人に手渡してくれました。息子の通帳に毎年入金してくれるお年玉、お父さんの愛、ちゃんと孫にも届いているよ。いつか他界した時、通帳記入されたおじいちゃんの名前を見て、息子はきっとそっと涙するんだろうね。そんなことをふと思いました。ようやく三賀日が終わり、明日は決戦の時と気合いを入れて就寝。

そして新年4日目、お年賀のみかんを買い、息子と一緒に両親宅へ出向きました。玄関から入ると、母の機嫌は悪くなくてほっ。彼女の機嫌でこちらの心理状態が変わるとは、私もまだまだだなと密かに反省。そして、仏壇に手を合わせ、祖父母の遺影に目を向けると、そこにいてくれているようでした。私達家族をいつも見守ってくれていてありがとう。母のお兄ちゃん、伯父さん届いていますか。いつもそばにいてくれているようでなんだかぐっときました。遺影がなくても感じる。それから、一緒にご飯を食べ、お墓の見学に行った話を母にもしました。なんで言ってくれなかったのよ!と第一声に言われて。最初にくる言葉がありがとうだと素敵だよ、お母さんと思いながら、そんなこともまるっと受け止められたらいいなと話を進めることにして。そして、案の定私と一緒に現地に行き話を聞きたいと言ってきたので伝えました。「いろんなことを全体的に考え、やっぱりお墓をこっちに移した方がいいと思ったの。これは、お父さんとお母さんも入る場所だから、最後は二人で決めてほしいと思う。だから二人で行ってきてね。」そう、これは私のタスクではなく、あなた達二人の課題なんだよ、おじいちゃんはそれを望んでいた。「なあSちゃん、おじいちゃんがいなければあの二人はうまくいっていたんじゃないか?お父さんに頭を下げに行ってくれないか。」何度も言われた二人だけの夕飯時。「おじいちゃんがいてもいなくてもうまくはいかなかった、それは岐阜の生活で知っている。だから、おじいちゃんは気にしないで。でもその気持ちはお父さんに伝えるよ。」その祖父が眠るお墓の移転を決めるのは二人がいい、私は道を用意しただけ、大事な共同作業は任せたよ。心の中で伝えました。それから仏壇の話になり、姉に断られたと母がまた泣きだして。「私は子供が守っていくものだと思っていたから、断られると思っていなくて、反論するとまた何が飛んでくるか分からないから黙ってた。」と言われ、両親が他界した後、私が引き受けることに。いろんな考え方がある、自分がそうだから相手もそうだとは限らない、時代の流れも状況もある、その視点がなかなか持てず、そして姉から飛んでくる矢が怖いんだろうなと。自分が放つ矢はまるで自覚がない、困ったものだなと微笑みながら話を聞くことに。その夜は、和やかに終わり、ばかだなと思いつつも食器を洗い、あまりにも気になったのでコップを漂白して帰ってきました。そして翌日、誘われた旅行の断りのメッセージを送ると、また凄まじい反撃の返信がだらだらと入ってどっとやられてしまって。彼女の気に入る答えじゃないと攻撃される、その恐怖とずっと子供時代から戦ってきたのだろうなと。一日経ち、気持ちを整理して父に連絡を入れると仕事初めの日に電話をくれました。すると、あっさり理解してくれて。「あのねお父さん、お母さんね、おじいちゃんから厳しく育てられたの。」「そうなの?!」いやいや、同居していたんだからなんとなく分かるやろ!と思いながらも先へ進めることにして。「おばあちゃんもおじいちゃんが怖くて、お母さんをなかなか守れなかったんだと思う。だから、お母さんずっと孤独で、ずっとおじいちゃんの言いなりだったの。私立の女子高に行き、銀行員になり、養子をもらった。おじいちゃんが敷いたレールの上をずっと歩いて、そういった子供時代だったから人格形成に影響しちゃったんだと思う。そのターゲットが私だから、いろんな感情をぶつけられるし、見捨てられ不安の中にいつもいるから攻撃が止まらないの。お父さんも術後で大変な時にごめんね。でも、お母さんの子供時代の辛さ、分かってあげてね。一番近くにいるお父さんが理解してくれたら、お母さんきっと救われると思うから。私も、術後の不調やシングルママの大変さもあって、しんどい中でRを旅行に連れて行ったりしているの。お母さんから、結婚50周年だから一緒に旅行に行って祝ってほしいと言われて断ったら反撃されたのだけど、そんな余裕がなくてごめんね。Sに嫌われたとか大騒ぎしているのだけど、嫌いだったらお墓の件も仏壇も引き受けない、愛があるからだよとお父さんの言葉で伝えてあげてもらえたらと思っているよ。お父さんも万全じゃない中、お母さんと旅行に行ってくれてありがとうね。」「Sは断ればいい。伝えておくから、気にしなくていいぞ。」「いつもごめんね。」「とんでもない。」このひと言が父なんだよな、そう思うと電話を切った後泣けてきました。もう一人で抱えない、声を上げたよ、そして受け止めてくれた。それが、どれだけ勇気のいることか知っているから、いろんな気持ちの中にいる時、ここを訪れてくれてありがとう。
2025年もひとりじゃないよ。