V字回復?

落ちるところまで落ちたら、後は上がるしかないといつも開き直って乗り切ってきたいくつもの局面。でも、今回は全然合わない薬の影響で停滞気味。さあ、どうする。地下一階を歩き続ける?たまに地上に上がれた空に感動する?意地でも地上にい続ける?試行錯誤しながら、外の空気を吸うことにしよう。

そんなことをグダグダ思いながら、ショッピングモールを歩いていたら、偶然見かけたのはプレ幼稚園時代からの友達で、今も息子と同じクラスの女の子の両親でした。そのお父さんは平日休みなので、幼稚園のお迎えで何度もお会いし、すっかり仲良しに。近くの公園でたまたま会った時は、子供同士が遊びだし、お父さんが面白い話をしてくれました。「僕、最近転職をして、次の仕事の開始時期が1か月空いたので、毎日のようにお迎えに行っていたんです。そうしたら、娘がクラスのみんなに『パパ、仕事辞めちゃった!』って言いふらしていて、お迎えに行きづらくなっちゃって。」「子供って正直だから、気を付けなきゃですね~。」と一緒に笑ってしまいました。そんな時期を過ぎ、漢方内科の主治医の所へ遠距離通院していた時には、きっちりお仕事モードで、きりっとした雰囲気で駅でお会いし、新しい仕事を頑張っているんだなと嬉しくなりました。挨拶と共に、いってらっしゃいと心の中で呟いてみる。いい朝の始まり。

そして、ぼんやり外を歩いていると、今回は同性の母にものすごく助けられているのだと実感しました。実際に母の更年期障害は酷く、すでに関東で一人暮らしをしていた時は、気が気ではなく、別居をしていた父に電話で相談をしたことがありました。「お母さんの様子がおかしいから、時間がある時に見に行ってきて。おじいちゃんの介護もしているし、お母さん一人で不安なんだと思う。」そう伝えると、なんとなく状況を理解した父は近いうちに行ってくると伝えてくれました。そして後日、母から凄まじい電話が入って。「お父さんが玄関にやってきて、Sに迷惑かけるな!っていきなり言われて帰っていったの。何なの?」いやいや、こっちが聞きたいよ。とりあえず、必死で母を宥め、心配しているからお父さんに様子を見に行ってもらったんだけど、逆に辛くさせてしまってごめんね、お父さんのアホと思いながら落ち着いてもらいました。私には優しいのに、どうしてお母さんに対してはこうなるかなと、夫婦の難しさを痛感して。それでも、なんとか更年期も介護も乗り越えてくれた母は、今の私の不調を誰よりも理解し、あの時頑張って良かったなと思わせてくれました。「全く食欲ないんだよ。」「私の食欲分けてあげたいわ!」一体何度この会話をくり返し一緒に笑ったことか。気持ちの赴くままに、それが何よりの薬だと知ってくれている母とのやりとりに救われて、今こうしてパソコンの前に座っていられているような気もしています。

そんな父と母が、夜ご飯を食べる時、ビールのグラスを暗黙の了解で重ねている姿を見て、チンと重なった音に感極まりそうになりました。色々あるけど、この人達夫婦になったんだなと。ずっと意味の分からないことが降って湧いてきて、こんなに憎みあわないといけないものなのかと、結婚ってひたすら忍耐なのかと思っていた子供の頃。それでも、沢山の苦難を乗り越えて、本当の家族になってくれたような気がしました。多くの会話はなくても、時にすれ違いがあっても、椅子に座ればグラスを重ねられる、そんな夫婦の形もいいなと。手術を経験して、見えてくるものがあったなら、これから先も両親から何かを得られそうな気がしています。

父が実家を出た数年後、父の同期が一人で遊びに来てくれたことがありました。その方は母も知っている人で、二人で何やら話している声が。その後、私が作った焼き菓子を持って帰宅されました。「あの方ね、随分前に出向になり、今は全く違うお仕事をされているみたい。お父さんが女の人を作って出て行った話をしたら、もう会うのは止めておくって。銀行に残っていられているだけでも恵まれている、同期はかなり出向になったって話してくれたよ。」その話を聞き、本当に複雑な気持ちになりました。一つの側面だけを見たら、だらしがない人としか思えない。それでも、合併した銀行の中で揉まれ、必死に残ろうと頑張っている父の後姿を知っていました。それは、母には見せずに娘の私にだけ覗かせてくれた父の弱さであった訳で。父にもプライドがある、それを私から母に話すのも何か違う気がして、ただ黙って聞いていました。

その後、50歳になり、銀行員としてやり遂げた父は、関連会社に出向。その時、銀行から退職祝いに用意された品には選択肢がありました。父が母に相談し、母が私に相談をしてくれました。「私達いらないから、Sに選んでもらおうと思って。」そう言われ、見せられたカタログ。その中で見つけたのは、HOYAの大きな花瓶でした。「私、これがいい。」「えっ、そんなに大きなもの、邪魔にならない?」「いいの、せっかくだから消耗品じゃなくて形に残るものがいいから。」そう言うと、母なりに私の気持ちを感じたのか、それ以上は何も言われませんでした。
数週間後、届いた綺麗な花瓶。父の銀行員生活がそこに詰まっているような気がして、バブルの好景気も、弾けた後の姿も、岐阜で過ごした生活も、出世も挫折も屈辱も、何もかも覚えていようと思いました。その花瓶は、今も和室の片隅に。そして、結婚式で使ったブーケを差し込んだ時、色んな気持ちを受け継いだ気がしました。幸せになれ、そんな父の言葉を返す時がきたのなら、届けに行かなければ。第二の人生は、まだまだこれからだと。