中学校で初めての面談がやってきました。朝からなんとなくそわそわして、のんびりと学校へ。すると、すでにいろんな部活が活動を始めていて、様々な音が聞こえてきました。そこにあったいくつもの光に胸が熱くなり、校舎の階段を上がることに。教室の前まで行き、廊下の椅子に座っていると、沢山のペンキの跡を見つけて。何度も何度も重ねられたペンキを見て、長い歴史を感じました。保護者として、今自分はこの中学校にいるんだなと。小学校の図書室に行く機会がなく一度も行けなかった話を息子にすると、「6年間もいたのに?!」と笑われたことがありました。意外とチャンスがなかったんだよ~と大盛り上がり。学校にはね、いろんな思い入れがあるんだと思っていると、前の方が終わったようで教室の扉が開けられました。すると、出てきたのは広報委員でお世話になったお父さん、会釈をした時にこちらのことをぼんやり覚えてくれていたようで、お互い笑顔でいい時間が流れて。そして、先生に呼ばれ席に着いてご挨拶。今年度の担任は、30代半ばの女性の国語の先生、落ち着いたトーンの中に明るさも滲ませてくれる方で、なんだかほっとしました。15分の優しい時間が始まる。
まず、息子の印象を伝えてくれました。「4月に話しかけたら、頬をぽっと赤くして照れてしまって。かわいい~って思いました。」これはもう一緒に笑うしかない。「外では何でもないふりをしていたり、ちょっとクールな一面もあるのですが、実はかなりの頭痛持ちで、寒暖差や気圧の変動などで心の中が嵐のような状態の時もあるんです。」「え~、全然そんな風に見えなかったです。きっと我慢強いんでしょうね。それってすごいことですよ。」と思いがけずお褒めの言葉を頂いたものの、それがいいことなのか私自身まだよく分かっていなくて。きっとケースバイケースなんだろうなと、自分の学生時代も思い出すことに。120%の所まで頑張ってしまった上で、何かがプツッと胸の中で切れてしまいそうになるから、周りは時々慌てるんだろうな。その前にSOSを発信することの重要性を学んだからこそ、息子には我慢だけが美徳ではないことを伝えていきたくて。それでも、学校で弱音を吐かずに頑張りたいなら、自宅では弱さを出せる雰囲気で待つこともひとつなのかなと。まだまだ試行錯誤は続いていく。そして、話はお友達関係に。同じような雰囲気の仲間とほのぼのやっていると、歴代の先生達同様に言われたので、人間関係についてあまり心配するのはやめようと思いました。その年代ごとに悩みは変わってくると予め先輩ママにアドバイスをもらっていたように、次から次へいろんな不安事は増え、その度に思うことがあって。うちの両親って、本当に娘達のことで悩んだことないよなと。常に自分達で考えて動くしかなかった、頼れるのは自分自身だけ。そんな風に生きていたらかわいくないよなと思いながら年を重ね、お互いに子供ができた頃、ふと姉が伝えてくれました。「私達さ、お母さんに頼られることはあっても頼らなかったというか頼れなかったし、欲しいものが見つかると、自分で働いて買おうとか思っていたじゃん。甘え方とかよく分からないしさ。でもね、私達、あんなお母さんだからこそ鍛えられた所もあると思うんだ。最低限、一人でも生きていく力はついたと思う。あたたかいお湯に浸かることはできなかった、だからこそ得られたものもあるんだよ。そういった意味ではお母さんに感謝している。お父さんにもね。Sちんが司書の資格を取る為に大学にもう一度行ってさ、そこで食中毒で吐いちゃった時でさえ諦めなかったじゃん。そういう経験って、絶対にどこかで活きてくるよ。居心地のいいおうちだったら、そこまで出来なかったかもしれないよ。」両親に対してまだまだいろんな感情が渦巻いているのは分かる、子供ができたからなおさらだよね、でも視点を変えたら感謝も生まれてね、その気持ちを妹にも伝えておこうと思った。ネネちゃんのいろんな心情を改めて思い出しました。ね、やっぱり親ガチャは外れではなかった気がするよ、いつの日か両親が他界した時、姉とそんな話ができたなら。
担任の先生がちらっと私が付けていた指輪に目をやり、シングル家庭だよねと少し不思議そうな表情をされました。スポーツが恋人だと息子には伝えた、この指輪はカナダ人の元彼が姉にプレゼントをした私のお守りですと心の中でメッセージを送り、にっこり笑ってお別れしました。ゆっくり階段を下りると、吹奏楽部の生徒達がマーチングの練習をしていて、なんだかエールをもらえたようで。その後、整形外科へ行くと、骨に異常はなく、膝に炎症が起きていることが分かりました。軟骨がすり減っていた訳ではなくて、ほっ。走り続けていた中3の時、両足のふくらはぎが悲鳴を上げ、陸上部の練習もまともにできなくなり、それでも欠かさず出席して、邪魔にならないように歩いていました。なぜそうしたのだろうと今になって思って。もうメンバーに選ばれないのは分かっていて、それでも一緒に戦うと行動で示したかったのかな。終盤はメンタルとの戦い、長距離で苦しくなった時、ほんの少しでも思い出してくれたらいいなと、最後に自分ができることを考えていたような気もしています。大会は、見事な秋晴れでした。その日からもう30年、久しぶりに走ったら炎症が起きてしまったのだけど、ちゃんと休むことを覚えたことだけは褒めてあげることにして。中学時代、悔しくて沢山泣きました。自分の感情を素直に出せた3年間、その土台を大切に、いつか花を咲かせることができたらと信じて。負けるものか。