整理すること

これまでの期間、書くことで自分自身を支えていたこともあったのだと、それを思うと、このサイトがもし無くなってしまったら、私自身途方に暮れてしまうのかなと、そんなことを漠然と思いました。向き合ってこなかったこと、向き合うことが怖かったこと、こんな話はただ重いだけなのではないか、どう受け取られるのか不安もあった中、沢山の方達が訪れてくれた毎日を思うと胸がいっぱいです。読んでくださる人達への感謝は、ずっと同じ気持ちのままです。ありがとう。

夫に、話があるからと言われ、深夜に二人で話しました。働き方改革で残業が減り、毎月の収入が減ってしまうこと、将来への不安があるので、今の私の仕事を辞め、もっと平日に安定した収入を得てほしいことなどを言われました。夫の言いたいことはなんとなく理解できる、でも、簡単に引き下がれるだけの気持ちでここまで来たわけではないのだと思うと、沢山の気持ちがこみ上げました。母からの連絡を5分返信しなかっただけで、暴言をメッセージ上で吐かれた時、もう無理だと自分の中でプツンと切れてしまった数年前。その辛さの中で、同じような痛みを乗り越え頑張っている一人の男性ブログに辿り着きました。客観的にではなく、その人そのものの経験を、その人の優しさをコーティングしながら届けてくれた思いに助けられたようでした。プログラマーのMさんに出会うことになったある楽団の方達へ、出会えて良かったという気持ちをA4サイズ10枚ぐらいで自分の半生を書きながらお礼を伝えたことがありました。思いがけず、沢山の団員の方達から返信をもらい、クラリネット奏者の女性の方が温かい言葉を届けてくれて。『お手紙を二回読みました。二回とも涙が出て大変でした。何の涙なのか言葉では表現できないのですが、Sさんの気持ちや自分の子供に対する気持ち、色んなのが混ざっています。もっと優しい大きな気持ちで息子に向き合えるようになりたいと。何故か反省の気持ちが強いです。Sさんが伝えたかったのは、そんなことではないのかもしれませんが、やはり人は経験に勝るものは無いと思うし、良いことも辛いことも。私はSさんの経験からそんな事を学んだと思います。』彼女のそんな気持ちがとてもとても嬉しかった。自分の経験がこんな風に届いてくれたこと、だから書けるものがあるのかもしれないなと改めて思いました。一凛珈琲で、Mさんとこのサイトを立ち上げた日、喜びを分かち合ったあの時間が胸の中にあるから、簡単には諦めないでいようと思います。元気玉を集めるよ、どうか皆さんのパワーを少しだけください。
Mさんの仕事仲間であった技術営業のFさんに、去年の休校期間中、相談をさせて頂くと、『自分の仕事を信じてあげてほしいです』と言われました。その言葉が、挫けそうな時の支えにもなってくれていたのだと痛感しています。負けるものか。

卵巣がんの疑いが出た入院前、完全バックアップ体制でいてくれた母が聞いてくれました。「追加で持っていくものはない?」と。「この黒いバッグにノートパソコンが入っているの。個室なら使ってもいいと言われたから、もし大部屋がしんどくて個室利用になったら持ってきてね。」そう言うと呆れながらも笑ってくれました。「病院でも仕事するの?!あなた病人でしょって思ったんだけど、パソコンが使えるならそれだけ元気になった証拠ね!」そんな母との楽しい会話の後、手術を受けて、説明の為に呼び出してくれた看護士さんと、静まり返った夜に談話室でお話しをさせてもらった時のこと。「卵巣、卵管、子宮といった女性にとって大切な臓器を摘出された患者さんが集まるコミュニティがあるんです。ここで入院された方の集まりなのですが、今はもしかしたらコロナの影響でオンラインになっているかもしれません。調べてみましょうか?」摘出をした者同士にしか分からない気持ちがある、そのようなコミュニティがあってくれたことになんとなく嬉しくなったものの、私はきっと自分の胸の内を話すよりも聞き役に回るだろうと直感で思いました。自分が誰かに癒されたい時、それでも、人の痛みを感じたら自分のことのように受け止めるだろうと思い、今は違うのだとお断りをさせて頂きました。その気持ちを察してくれたのか、看護士さんが伝えてくれて。「それなら、私達が聞きますから。」そう、看護士なら受け身でケアを受けてくれる、あなたに必要なのはそういうことですよね、そんな気持ちを届けてくれているようでした。

退院後、母が教えてくれて。「お父さんの一番下の弟の奥さん、叔母さんがね、数年前に子宮がんを患っていたことを思い出したの。○○ちゃん(叔父)に連絡したら、“子宮を全摘出して、今も周りに転移していないか気を付けながら生活をしているよ。Sは卵巣がんじゃなくて本当に良かった。その辛さ分かるから、いつでも連絡してきて”って。」なんだか沁みた。なんだろうな、なんでだろう。まだ私が大学生の時に遊びに行った父の故郷、佐賀。マウンテンバイク部に所属し、別府港から熊本の阿蘇山を目指しました。そして、みんなで感動のゴールをした後に向かった父の実家。マウンテンバイクは郵送し、身軽に向かうと温かく迎えてくれた同居している叔母さん。看護士さんをしていて、沢山の患者さんをケアしていることが分かりました。その叔母さんが、今度はケアされる側に。いつかまたお会いできる日があれば、お互いを労えたらと思っています。
書き始めた時から、もうすでに色んなことがあった。そんな毎日を紡ぎ、生きることの難しさと何とも言えない小さな喜びの数々を、伝え続けたいんだ。気持ちの整理って簡単じゃないけど、沢山の葛藤の中で自分の本当の気持ちに気づくことができたなら。変わらずここにいたいから諦めない、絶対に!!