見てくれている人

野球のプレミア12、日本対アメリカ戦。7回裏2対4で負けていた日本の攻撃で、バッターボックスに立ったのは、外崎選手(西武)でした。バットに当たりショートに転がり、全力で走った一塁塁審はセーフの判定。テレビを観ていたその実況に、何かがじわっとこみ上げるものがありました。「1、2打席目はフォアボール、3打席目は、献身的な姿が生んだ内野安打。野球の神様が生んだ内野安打かもしれませんね。」と。途中から観ていた私は、外崎選手が1、2打席目はフォアボールを選んだことは分かりませんでした。それは、次に繋げる為に選んだフォアボール。その姿をそういった表現で伝えてくれた実況を聞いた時、野球が好きな理由がここにあったのだと改めて教えてもらったような気がしました。内野安打は、本当に少しのタイミングでアウトになる。際どい中でセーフになったのは、これまでの2打席があったからこそ。そんな姿を、噛み締めるように伝えてくれた実況の方の野球に対する想いまで感じられて、外崎選手を労う気持ちや、侍ジャパンが勝つために一人一人がどんな思いで戦っているのかを伝えてくれた気がして、堪らない気持ちになりました。“野球の神様”、きっといるんでしょうね。

この間も時間ぎりぎりまでシェアオフィスにいて、慌てて片付け、受付のスタッフさんに挨拶をしてエレベーターのボタンを押した途端、ここの女性GM(ゼネラルマネージャー)に声をかけられ慌てました。「もう帰っちゃうんですか?」「もう帰っちゃうんです。」あれ?なんか返事がおかしいなと自分でも思っていたら、半笑いされながら伝えてくれました。「今日イベントがあるんです。いつも男性が多いから、女性の方にも来てもらいたくて。」GMは、たまにしか見かけないのですが、いつもパソコンに向かう私をそっと見ていてくれることを感じていました。だからなのかな、随分親しげに、ぜひ!という気持ちを強調してくれて。「今日が無理でもまた他にもあるので良かったら来てくださいね。」と丁寧に資料も頂き、それがどこかで仕事の姿勢に対する評価のようで嬉しくなった別れ際。お互いがお礼と共に会釈しながら閉じられるエレベーターもちょっといいかも。

小学校の図書室で働いていた帰り道、ふと大学時代の教職課程、アドバイザーの恩師と話したくなり、一度だけ電話をしたことがありました。手元にあった名刺は、卒業した後に聴講生として出向いた大学のキャンパス内で、先生が渡してくれたもの。「Sさん、教職関連のことで何か相談があったらいつでも連絡しておいで。」と伝えてくれたことがずっと心に残っていました。卒業しても気にかけてくれていた気持ちがやっぱり嬉しくて。何度目かのコールで取ってくれた懐かしい恩師の声。「先生、○○です。2002年の卒業生です。」「あ~、覚えているよ。本当によく頑張っていたからね。」「実は、あの後司書の資格を取って、今関東の小学校で司書として働いているんです。」「そうか。あなたが、教員ではなく司書の道を選んだこと、それでも教育という場にいてくれたことがなんだか嬉しいよ。僕の教え子、皆地元が好きで結構こっちに残っているから、関東で活躍してくれて誇らしいよ。Sさん、あの頃と何も変わっていないね。あの時の気持ち、大切にしてくれているのが分かるよ。」「私、本当に一度教職課程を諦めようと思ったんです。先生がいてくれなかったら、投げ出していたかも。だから、教育現場にいて、どうしても先生にお礼が言いたくなって。先生、あの時はありがとうございました。」

教え子からのこんな電話は、教職を教える者として嬉しくて堪らないよと、相変わらずの謙虚さで話してくれました。私が家庭内のことで投げ出したくなったことを察知した後の、恩師の研究室で話した面談。「将来的に教員にならなくても、あなたには教育現場にいてほしい。」先生との約束、果たしたからね、そう心の中で呟き、優しく切った通話のボタン。研究室の私はずっとここにいる。