湿度の高い日が続き、気持ちまでどんよりとしていると、ふと息子がまだ赤ちゃんだった頃のことを思い出しました。相当吐いてしまい、慌てて小児科へ連れて行くと胃腸炎だということが判明。その後、私も移ってしまい大混乱でようやく落ち着いた時に、別件でまた診てもらうことに。「先生、あの後私もかなり吐いて大変だったんですけど、胃腸炎って一度かかったらもうかかりませんか?」「ヤツらは、手を変え品を変え、形を変えてやってくる!」きっとウイルスそのものの形が変化するから、また違う形で襲ってくるということを伝えたかったのだろうけど、その表現に先生のらしさが思いっきり盛り込まれていて、爆笑してしまいました。大変だったねと、これからまた第二弾に襲われる可能性もあるけど、笑って乗り切ってねという先生のメッセージがそこに込められている気がして、ほっこりしました。そして、12年もお世話になって、改めて気づいたことがあって。先生は、オギャーと生まれたその時から、もしかしたらお腹の中で心臓が動き始めたその時から、その子の人格をとても尊重してくれているのではないかと思いました。お母さんが心配する気持ちも分かります、でも、この子にとって今必要な医療はなんだろうと二人の顔を交互に見て、いつも最善を探してくれているのだろうと。出会った頃と全然見た目も変わらなくて、小児科へ行くといつもここだけ時が止まっているかのような不思議な気分になります。先生そのものが、絵本から飛び出してきたのではないかと思う瞬間があって。子供の世界から見えているものを大切にしてくれている医師、その視線のやさしさにいつも私の方が沢山の気づきをもらっているのかもしれないな。
佐賀の祖母の葬儀後は、姉と別行動になったことをいろんな角度からもう一度考えてみました。ネネちゃんは確か、帰りは福岡空港から羽田に向かうと最初は言っていて。でも、実際にはもう一度佐賀空港に戻ってレンタカーを返して飛行機に乗ったと。時間的なことで変更があったのかもしれないけど、福岡空港を利用してもらいたかったという気持ちがどこかにありました。理由は、関空で働いていた彼女は、急遽福岡空港に長期の出張へ行くことになり、そこにいた頃の姉はどこかで安らいでいたから。福岡空港を経由してくれたら、きっとその時のことを思い出す、そして姉もまた過去の自分を抱きしめてくれるのではないかと思いました。家族の誰にも言わず、福岡空港で勤務していた姉、でも佐賀の祖父母には会いに行っていて。九州にいたその時間は、ネネちゃんがようやく立ち止まれたひとときだったのではないか、だったら母親になって奔走している今、もう一度そっと思い出すきっかけになってくれたらいいなと。ただ、またこういった話をすると彼女を泣かせてしまいそうなので、いつか時が来たら伝えようかとも思っています。「Sちんはいつも、すぐに言葉にしないんだよ。一人になってきっとこちらが思っているよりも深く広く沢山のことを考えているんだろうなって。話してくれたらいいのにっていつも思っていたんだけど、Sちんは自分のタイミングであったり、相手のタイミングであったり、そういったものを考えて伝えてくれていたんだね。うちの両親、そのことに気づく時がくるのかな。」そんなことを伝えてくれたこともありました。9.11同時多発テロの後、姉が留学していたカナダへ母と行くことそのものが大変な中、帰りの便でさえまだ混乱状態でした。カルガリー空港からバンクーバー空港の国内線は何も問題なく、定刻に到着。その後、成田行きの便では飛行機の確認でどんどん時間は過ぎ、搭乗した時はへとへとでした。すると、ようやく成田空港に着き携帯の電源を入れると、なぜか姉の元彼から電話が入り大慌て。姉の直感で、本当にもしかしたら帰りの便にも影響が出ているかもしれないと思い、パソコンからこちらのフライト状況を追いかけてくれていたよう。成田に着いても、成田名古屋空港間の飛行機はすでに飛んでしまっていて、おじいちゃんがすでに車で迎えに行く前に慌てて実家に電話をしたら繋がったということ。携帯電話を持っていない祖父に連絡を入れてくれたのは、ネネちゃんの超ファインプレーでした。元彼を通し、伝わってくる姉の想い。大惨事になると、お母さんやおじいちゃんはきっと妹に当たる。だから先回りをして、できるだけ痛みを回避したかった。行間から伝わり、成田空港で泣きそうでした。
そして3.11、今度は母とオーストラリアへ。現地で異変を感じ、姉との国際電話で状況が分かり凍り付きそうでした。その後、帰りの飛行機は予定通りには飛ばず、翌日関空行きの便へ。本当なら、成田空港から私は高速バスで帰宅、母は成田名古屋間を飛行機で帰るはずが、できなかったのだけど、姉がキャンセルしてくれたのか?そもそも飛行機は飛んでいなかった?その時、ネネちゃんとの国際電話も途切れがちで、大混乱の中にいたので、国内線はどうしたのだろうと今さら気になりました。あの時も、どんどん先回りをしていろんな人に連絡を取ってくれていて。飛行機に乗るということは命を預けるということ、本当に何が起きるか分からない、そのことを心底知っている姉は、驚く程冷静に対応してくれました。「日本が大変なことになっているの。」右耳ではゴールドコーストの波の音が聞こえ、左耳ではネネちゃんの落ち着き過ぎた声、その時のことを忘れることはありません。
二回もの危機を、航空会社で働いていた姉に助けてもらいました。そんな彼女と祖母の葬儀に向かう為、待ち合わせた羽田空港。どっといろんな気持ちが溢れそうでした。佐賀行きの便に乗り込み、少しでも広い席にと前後の順番を替わって替わってくれて。もし、そのまま座っていたら、私の頭が姉には見えた訳で、いろんな気持ちにさせてしまったかもしれないなと。だから、やっぱり替わってもらって良かった。少し寝て、パンを食べ、髪の毛を櫛でとく姿が見えました。関空で早朝勤務に出る、慌ただしいネネちゃんも思い出して。いろんな場面が、次から次へと流れ、一番最後に残ったのは、佐賀に向かう新幹線に乗り込む幼い姉が握ってくれた手のぬくもりでした。いろんな旅があったねと改めて思う。ページをめくる度に、喜びや悲しみがあり、沢山の笑顔や悔しさも止まらない涙も儚さもそこにはあって、それが生を全うするということなのかな。まだまだ続くよ、手を変え品を変え、小さなキラキラを見落とさない世界を作りたい。