せっかくだから

息子の定期歯科検診がある為、朝伝えました。「今日は、学校が終わったら歯医者さんに行くからね。」「え~。」とぶつくさ言いながらも納得した様子。そして、いつものようにお迎えに行き、急いで帰ろうと言うと、「あっ!」と慌て出し続けてくれて。「どうしよう。すっかり忘れていて、D君と約束してきちゃった!」「待ち合わせは何時?」「3時半。」「歯医者さんまで少し時間あるから、遊んでおいで。途中で待ち合わせしよう。」そう言って猛ダッシュで帰り、見送りました。その後、約束の場所で合流し、歯医者さんへ。短時間でも遊べて良かったね。それから、いつものように歯科衛生士さんの検診があり、お礼を言って帰ろうとすると画像を見せてもらいながら、伝えてくれて。「一か所だけ虫歯になりかけの歯があるようなんです。でも、本人は痛くないと言っていて、気を付けてもらいながら4か月後の検診まで様子見でもいいかなと。」「あら、そうなんですね。」そう伝えると、「ちょっと待ってくださいね。」と言われ、歯科医師の若い男の先生が来てくれました。ご丁寧に挨拶をされ、これはどうもどうもと恐縮していると、「僕が今ささっと再度確認してみますね。」と言われ、また診察室に連れていかれました。そして、レントゲンを撮ってもらうと、やはり虫歯であることが判明。数週間後に同じ先生が診てくださることになり、なんだかうちの息子、持ってるなと笑えてきて。自宅に帰り、疲れた~と連発されたものの、本人なりに状況は理解しているようでした。「本当なら4か月後の検診まではっきり分からなかったんだけど、先生達のご厚意で今日見つかったの。それって虫歯が進行しない為に、本当に有難いことだから、次の診察まで歯磨き頑張ろう!そして、グミ系は少しの間我慢できる?」と伝えると、意外とあっさりお菓子袋から取り出し献上してくれるものだから、多少なりとも自覚があったのか?!と潔さに笑ってしまいました。「ねえR、不幸中の幸いという言葉があってね。不幸な出来事の中に救いがあるとかそう言った意味なんだけど、見つかった虫歯は子供の歯だったの。大人の歯じゃなくて良かったし、失敗を繰り返さないように気を付けよう。」そう話すと、ようやく歯磨きの大切さが分かったよう。経験から学べること、沢山あるね。

そんな出来事の中で、とても自然に思い出された子供時代。岐阜の小学校に通っていた頃、歯の矯正をしなければいけなくなり、通院していたものの、父の名古屋への栄転が決まりました。同じ先生に診てもらった方がいいという母の判断で、名古屋から中津川への通院が待っていて。交通費と治療費を渡され、行ってらっしゃいという母。え~!一人で行くの?とは思わず、むしろ気楽だなと日帰り岐阜の旅が毎回待っていました。予め友達に連絡をし、病院終わりに遊んで帰った日もあれば、学校の帰りに散々お世話になった街の図書館へ一人で行ったことも。ランドセルを背負い、学校と家の間のチェックポイントにしていた図書館。一番心が安らいだ場所でした。久しぶりに行き、その空気を吸い込むとやっぱり紙やインク、木の匂いがあって落ち着きました。いつも優しく迎えてくれた司書のお姉さん、ありがとう。そして、なんとなく学校にも行ってみたくなった日は、グラウンドへ。すると、同じクラスだった男子にたまたま会い、途中まで一緒に帰ることに。「なんでSがここにいるの?」「名古屋に帰っても歯医者さんの治療が残っていて、たまに通っているの。」「あ~、そう言えば誰かに聞いたな。」そんな彼も、転校生でした。ちょっと引っ込み思案の中、頑張っていることを知っていました。そう、私達は戦友。言葉はなくとも、心の中で頑張ろうねと届け合っていたことをなんとなく感じていて。そして、別れ道の地点へ。「S、地元に戻ったから安心だとは思うけど、またいつでも来いよ。」「ありがとう。○○君も慣れない土地で大変だと思うけど、応援してる。」そう言って、バイバイ。彼は、自宅へ、そして私は中津川駅へ。県を越え、出会った仲間がいて、優しい電車の帰り道でした。

その時、小学5年生、ネネちゃんは中学3年で愛知の高校受験をし、実家の祖父と二人暮らしを始める予定だった頃。姉と祖父の波長が合わないことを知っていたので、それはそれでちょっと心配もしていて。そんな時期に、急遽父の転勤が決まり、家族みんなで引っ越しをすることになりました。気持ちの整理がつかないまま、段ボールに囲まれ、みんなとのお別れが待っていて。なんだかもっとその街を噛み締めたくて、だから通院という形でゆっくり市内を歩けた時間は特別なものでした。待ち合わせをした友達と観光名所にも付き合ってもらったりして、岐阜でのエピローグはあたたかさに包まれていました。ひとりになって分かること、沢山あったのだと。そして、もしあの時父の転勤がまだだったとしたら、私もネネちゃんと同じタイミングで名古屋に引っ越し、祖父と三人でわいわい暮らすという選択肢もあったなと今さら思いました。その時はまだバリバリ会社員として働いていた祖父、愛知の高校に進学した姉と、小学6年生になった私がいたら、どんな生活が待っていただろう。真っ黒に日焼けした制服姿で、テニスのラケットを持ちながら帰ってきたネネちゃん、もっと笑ってくれていたのではないかとふと思いました。それでも、やっぱりあのタイミングで父の転勤があったのは、意味があり、本当にもしかしたらおばあちゃんの力が働いたのかもしれないなとも思っていて。祖母は、母の心配もしていたけど、姉の心配もしていた、とても深く。その真意にようやく辿り着けた気がしました。

11月のお誕生月になると、毎年苦しくなるというネネちゃん。伝えたいことは沢山あるのだけど、うまく言葉にできそうにもなくて。息子と観ていた夏の甲子園。ナイターの時間にふとテレビを点けると、大垣日大高校の試合がやっていて、住んでいたことがある岐阜県の高校だから応援すると伝えると、一緒にエールを送ってくれました。その時映し出されたご年配の監督、なんだかとても気になっていると、実況の方が「阪口監督」という名前を出され、時空を超え、一気に蘇ってきました。姉と、岐阜の社宅で食い入るように観ていた春のセンバツ、そこで地元愛知の東邦高校が優勝し、その当時『鬼の阪口』と呼ばれていた阪口監督の姿に歓喜し、一緒に感動して泣きました。それから、何十年もの時を経て、息子と観た甲子園では大垣日大の監督として甲子園の舞台に立っていて。野球を愛する姿は昔のままで、姉と熱狂した小学生の自分が目の前にいるようで、また涙が溢れそうでした。そして、ご勇退。すっかり阪口監督のファンになった息子には、まだ内緒にしておこうと思います。せっかくだから、ネネちゃんと思い出話に花を咲かせようか。あの頃の時間がきっと動き出す、色を持って、優しく強く。