年明け、何気なく見ていた箱根駅伝。青山学院大学4区の吉田祐也選手が快走を繰り広げている中で、原晋監督が声をかけているという実況が入ってきました。ん?どこ?沿道??なんて思っていると、後ろにぴったりついた車の中からマイクを持って何かを伝えていました。それを聞いた吉田選手が、拳を大きく掲げた時、彼の目が一瞬うるっとしたような気がして、4年間の集大成がこの走りに詰まっていて、原監督のゲキがこれまでの想いを一気に駆り立てたのだろうと、見ているこちらも泣きそうになりました。後ろからかけられる恩師の声、堪らなかったんだろうなと。後から気づいたことは、彼は今まで11番手だったということ。選ばれてこなかった。ただひたすら努力を重ね、大舞台に立った時、これまでの努力が全部あの走りに表されたのだろうと、内側から溢れ出る彼のパワーが見ているこちらにも伝わってきました。悔しさを力に変えられるか、それを応援する人に教えてくれたんだろうな。私もまた走りたくなりました。今からでも遅くないかな。自分のペースでもう一度走ってみようか。
中学3年の陸上部最後の大会前、練習していた両足が悲鳴を上げ、近くの接骨院へ。優しい男の先生に解してもらっていると、隣に寝転んだのは陸上部キャプテンの彼。「Sちゃん!」と声をかけられベッドから落ちそうでした。一緒に隣で寝転びながら解され、沢山の話をしました。「皆部活を引退して、受験モードなのに、俺達陸上部だけまだ秋の大会が残っていて、焦りみたいなのも正直あるよね。でもさ、こういう経験って後になったらやっぱりいい思い出だったとか、俺達にしか分からないものを掴めるような気がするんだよ。だから、頑張ろうな。」「走っていると頭の中が空っぽになるよ。足痛いのに、もう本当に自分との戦いだよね。」そんなことを仰向けになりながら話していたら、ご夫婦の先生達が微笑んでくれて。頑張れ中学生!きっと心の中で何度も伝えてくれていたのだと思います。
両足肉離れで補欠にも選ばれなかった私。駅伝のアンカーを務めたキャプテン。「Sちゃんの分まで走るから。悔しかった気持ち分かるから。誰よりも練習していたこと、知っているよ。」一緒に通った接骨院仲間はお見通しでした。平凡な記録、下から数えた方がいいような結果。それでも、その時期に何かをやり遂げようとした経験そのものの価値を私も彼も知っていました。
そして、年末たまたま点けたチャンネルでやっていたのはサッカー天皇杯準決勝。ヴィッセル神戸が勝った時、実況の方が伝えてくれた言葉に感極まりました。「震災から25年、神戸がまた一つの歴史を作りました。」25年か。どれだけ時間が経っても、こうやって伝え続けてくれるその言葉に胸がいっぱいでした。年明け、風邪を引き、自宅で観ていた決勝戦。神戸が優勝し、イニエスタ選手が天皇杯を掲げた時、色々な気持ちが駆け巡りました。復興って何だろう。25年前のあの震災から時が止まっている方もいるのではないか、それでも周りは変化し、スポーツがまた一つ針を進めてくれることもあるのかもしれないなと、進んでくれたらいいなと、沢山のことを思いました。実はできるサッカー。息子が持っているサッカーボールでまた一緒にやろうと思います。
25年前は、中学3年生。そう、陸上部を引退してからすぐに起こった震災。大きな1年でした。関東に来てから始めた英会話の講師、Jamesに聞かれた日本で起きた大きな災害は何か。阪神大震災のことを伝え、どれぐらいの被害だったか聞かれたので、人数を伝えると、「six thousand (6千人)…」と言葉を詰まらせていました。私の中で消えることはありません。だから、もう一度神戸の街へ行く。高校の卒業旅行から時を経て、感じる気持ちがきっとそこにある。