2月1日は祖父の誕生日、その翌日の深夜に陣痛が来た日。嬉しい事なのに、祖父の命があと少しで終わると痛い程感じた時のことを今でもはっきり覚えています。祖父は、ひ孫の顔を見たら逝く、その予感は見事に当たってしまいました。息子を抱きかかえ、帰省したのはGW。亡くなったのは、6月上旬でした。その4週間の間、祖父はどんな気持ちでいたのだろうと。明け方、眠るようにこの世を去り、最後に見た景色が白い天井じゃなければいいと思っていたのだけど、きっと母の顔や看護士さんの顔だったよね、生を終えるその時に人のぬくもりを持って旅立ってくれていたらいいなと改めて思いました。息子の名前は、祖父と同じ2文字に。名前は、親が子供に渡す最初のプレゼントなのかもしれないけど、祖父へのありがとうも込められていて。何かを感じ、旅立ってくれていたらいい。ひとりじゃないって、川を渡る時に、振り返って微笑んでくれていたなら。
父方の佐賀の祖母が少し前に亡くなり、財産分与について母が話してくれた内容をずっと考えていました。もしいずれ佐賀でそういった話になっても、父が養子に入ってくれたことだけでも有難いことだったから1円も受け取るなよと母に言っていた祖父。その気持ちを聞いた時、思いました。祖父がそこまで言い切ったということは、母にある程度の財産を残していたなと。おじいちゃんは、そういう人。石のように頑固な所があるけど、絶対に曲げない信念がある。男に二言はない、それを貫いた生き方を見せてくれました。祖父がこの世を去り、姉とひと呼吸おいた後、気になっていたことを聞いてみたことがあって。「おじいちゃん、総合病院じゃなくて、完全看護の病院に最後は移っていたよね。そこの費用、かなりしていたんじゃない?」「どうやら病院を変わってから、赤字になってしまっていたみたいなの。お母さんが何気なく話してくれたことがあってね。おじいちゃん、最後の最後でお母さんに経済的に負担をかけないように、逝ってしまった。」その話を聞いて、どっと泣けてきました。電話で良かった。母はいつも私に文句ばかり言っていて。「おじいちゃんはSには感謝するのに私にはしてくれない。」と。言葉には出さなかったかもしれない、でも娘孝行を考えていたよ、どんなときも。私は知っている。「なあSちゃん、お父さんと別居中で、おじいちゃんがいなくなった後、お母さんは大丈夫だと思うか?」「おじいちゃんが建ててくれたこのおうち、家賃がかからないんだよ。それって本当に有難いこと。お母さんね、元々銀行員だったし、数字には強いはずだから、いろんなことを考えてやっていくんだと思う。私もフォローするし、前より逞しくなったよ。」そう話すと、少し安心し、自分ができることをと考えているのが分かりました。あのねおじいちゃん、お父さんがまた同居したら、自分の家賃がいらなくなるからその分きっと遊びだす。ギャンブルや女性関係でね。そうしたら、おじいちゃんやお母さんの気持ちを踏みにじることになる。それはとても悲しいこと。だから、この敷居を跨がせる訳にはいかないんだ。今の関係がいい、寂しい気持ちにさせちゃってごめんね。心の中で届けました。人と人って色々あるね、いい距離感なら気づかなくていいこともあるのかな、でも、おじいちゃんの気持ちは大切に受け取った。私が生きている限り、絶対に手放さない。
その数年後、母が関東に来て、退職した父と同居。予想通りの喧嘩が連日のように待っていて、でもこちらの想像を越えない範囲のもので、それも可笑しくて。二人まとめて説教した方がいいのか、個別にがいいのか、そもそもそんなことでこちらがやきもきするのもあほらしいと思ってみたり。でも、祖父の気持ちをもう一度本気でぶつけた方がいいのでは?とあれこれ巡らせていたら、私の中にあったテープレコーダーのその先が流れ出しました。それは、脳梗塞で何度も入退院を繰り返し、リハビリも兼ねて家庭菜園のきゅうりを作れるまでになった時のこと。帰省する孫に食べさせようといいもの取っておいたら、深夜に盗まれて本気で腹が立ったのは以前書かせてもらったこと。その後の会話を思い出しました。おじいちゃんがせっかく作ってくれたきゅうりなんだよとこちらが怒っていると、伝えてくれて。「どんな事情があったか知らん。魔が差しただけかもしれん。でもな、本当にもしかしたら食べるものに困っていたのかもな。おじいちゃんには分からん。」こみ上げていた怒りがしぼんでいく。被害者の祖父が、加害者側の気持ちに立った。戦地で捕虜になり、草と雨水で生きて帰ってきたおじいちゃん。食べ物の有難さを人一倍知っている人。そんな祖父から発せられるそういった言葉に、胸が詰まりました。その傍らで、遠くまで高い苗を買いに行ってガソリン代の方が高くついたわよとプリプリしている母がいて。その温度差というか、感覚の違いというか、全く別の話をしている二人に半笑いしてしまったのだけど、なんだかそんな時間までもが昭和の名残のようでもあり、仏壇の前で話すそういったひとときが好きでした。誰かを思えば、誰かがそっぽを向き、双方向って簡単じゃないって思うのだけど、それでも母はやっぱり愛されてきたのではないかと時が経ちそう思いました。二人とも素直じゃないから、伝わらなさが半端じゃなかった、さあ、どうやって両親と改めて向き合おうか。浴びる程お酒を飲んでからも、ありかもしれない。祖父がきゅうりを作っていた実家の車庫が、調整区域に入っていて全く売れないらしい。それね、おじいちゃんの仕業かもよ。この土地は思い出が詰まっているんだよ!わしゃ、売りたくない!!そんな祖父の声が聞こえてくると彼らに伝えたら、信じてくれるだろうか。魂は生き続ける、想いが強ければきっと。