悔しさを力へ

運命のドラフト会議を息子と見ようと、早めに宿題を切り上げ、夕飯を一緒に食べながらその時を待ちました。すると、緊張感の中、重なった1位指名の選手達のくじが引かれることに。息子が大好きなヤクルトの高津監督がまだ開いていないくじを選ぶと、隣で拝みだし、笑えてきました。そして、外れると、椅子からずっこけそうになった10歳児。そのリアクションが、もう本当のファンなのだと思わせてくれた嬉しい夕方。そして、ふと聞いてきました。「そう言えば、村上選手ってくじがあったの?」と。言われてみれば、知らなかったなと検索をかけてみることに。「ああ!お母さんも知らなかったんだけど、2017年のドラフト会議で、今日本ハムで活躍している清宮選手が7球団の競合になって、ヤクルトが外れたみたい。その後、1位で村上選手を指名したんだけど、巨人と楽天との3球団の競合になって、ヤクルトが引き当てたんだって。全然知らなかったよ。球団の上の方のくじで、その選手の運命が変わるって改めてすごいね。」「ええ!ヤクルトに入ってくれて嬉しい。」としみじみ言うので、微笑ましくなりました。息子のプロ野球観戦デビューは、東京ドーム。その後、神宮球場に通い、今年の夏は仙台のモバイルパークへ。もし、巨人か楽天の入団だったら、別の球場で村上選手を見かけることになっていたかもしれないなと、なんだか感慨深くもあって。56号のホームランを観に行こうと、平日なのに神宮のナイターに連れて行ってしまった去年。村上選手がバッターボックスに立つ度、大勢の人がカメラを構え、固唾を飲んで見守りました。その雰囲気を持って帰り、ペナントレースの最終戦をテレビで観戦しました。最後の打席で放ってくれた56号、息子と叫んだその時間は今も胸の中にあります。その村上選手が、ヤクルトからJAPANのユニフォームへ。WBCで苦しんでいた村上選手の心のそばに息子はいました。そして、準決勝最終回、1点ビハインドの中、2塁には大谷選手、1塁には周東選手が代走のランナーとして出てくれていた場面、隣で本気で祈っている彼がいて。1ボール1ストライク、打った瞬間、「村上~。」と叫んだその声はもう半泣き状態でした。息子の声が少し震えていて、重圧を吹き飛ばすサヨナラタイムリーを打ってくれた時、一緒に戦っていたんだなと。そんな彼のヒーローが、くじでヤクルトに入団されていたとはね。沢山の巡り合わせ、その裏側で指名をされずに悔しさと戦っている選手達がいる、その気持ちも忘れたくないと思いました。沢山泣いた後に、また一歩踏み出せたなら。どんな時も応援しています。

そんな時、ふと大学時代を思い出しました。2年になり、教職課程が忙しくなって、家庭内も散々な状態だったこともあり、3年から受ける予定だった司書課程を一旦諦めることに。4年になり、日本古代史のゼミだけを受講すればいいというスケジュールになったので、車通学に変えました。教育実習も終わり、後は卒業論文を書くだけという中、何か大学でやり残したことはないだろうかと講義が終わってからふらふらとキャンパス内を歩き、野球部の練習場へ辿り着きました。本当は憧れていた野球部のマネージャー、そんな余裕はなかったキャンパスライフ、それでも練習風景を自分の中に残しておきたくて、バックネット裏のベンチへ。土の匂いと、ボールがバットに当たるカキンという音、気持ちのいい笑顔がそこにはあって、この空気を持って社会人になろうと思いました。空いている時間は図書館やメディアセンターにいることが多いことを知っていた友達、でもその場所は秘密でした。まだその時はガラケーの時代、座っていたそのベンチは電波も悪く、なんだか異空間のようで、歩いてきた22年間を噛み締めた時間。その場所へ行ったのはきっと片手で数えられる回数だったのだけど、22年が経ち、思い出したら途轍もなく大事な場所で、大切なひとときだったのだとその青さに涙が溢れました。そのベンチ、まだ残っているだろうか。いつか息子は大学野球にも付き合ってくれるだろうか。お母さんの青春が、詰まっているのだと。

さらに遡ること中学時代、テニス部はテニスコートがあったので独立したスペースを使わせてもらっていたものの、グラウンドでは野球部とソフトボール部、サッカー部がそれぞれの場所で練習を行っていました。クラブハウスは、サッカー部がいる場所の端を通っていかなければ辿り着けなかったので、トンボをかけていた男子部員に話しかけることも。「他の部活と分けて使っているから、トンボをかけるスペースも決まっているの?」「いやあ、なんとなく。でもサッカー部って広範囲で使うこともあるから、意識して広めにかけているよ。」顧問である社会科の先生の方針でもあるのだろうと、人に対してだけでなく関わるものに対して敬意を払う姿勢に嬉しくなりました。そして、野球部の顧問であり、陸上部の総監督だった体育の先生はいつも『心技体』という言葉を使っていて。どれも大切、どれも磨け、そしてバランスを保て、そういうことを伝えようとしてくれていたのかなとこの歳になって思いました。その先生二人と、3年生を担当してくれた若い女性の先生と三人で慰労会も兼ねて、前夜飲み会に行ってきたと社会の時間にサッカー部顧問が話してくれました。「お酒が入ったら○○先生(野球部顧問)が、スナックで『YAH YAH YAH』(作詞作曲:飛鳥涼)を歌い出したんだけど、サビの部分だけじゃなくて全部の歌詞をYAHで歌うから、そこにいたみんなが苦笑して大変だったんだよ~。」その話を聞き、教室は大爆笑の渦に。先生達も人間で、厳しい中にほっこりできる時間もあって、その緩んだ感じがなんだか柔らかくて好きだな、そんなことを思いました。

随分と時が経ち、シェアオフィスで出会った不動産関係のお仕事をされていたHさん。私が野球少女であることを笑ってくれた彼は、学生時代の部活を聞いてくれました。「中学でテニスと陸上をやって、高校では大学受験に専念しようと茶道部に入って、大学時代は1年の時だけマウンテンバイク部にいたんです。」そう話すと、満面の笑みで返答が。「だから、○○さんはスポーツがお好きなんですね!」プレーヤーとしてそこにはいろんな経験があったんじゃないですか?野球に限らず、いろんなスポーツから感じられるものがあるんでしょうね。彼らしい見方に嬉しくなった午後の時間でした。悔しさは大事な感情だって思う。そのエネルギー、自分の中で燃やしてください。