並行して走るサイドストーリー

寒暖差の激しいここ最近、息子のメンタルもぐらつき、それでも落ち着いて接すると和らいでくれる時もあり、ほっとできる時間が以前よりも増えました。彼にとって安心できる自分でいたい、その為にはイライラしてしまう回数を減らしたくて、アンガーマネジメントも意識しているのだけど、この間はテレビに夢中でこちらの熱々のお茶を全部こぼすので、さすがにブチ切れてしまった訳で。「運動会のビデオやカメラがテーブルに置いてあるから、濡れたら壊れるでしょ!」と大人の都合を口にしてしまい、拭きながら小さく反省。もっと幼かった頃、みそ汁をこぼしてしまった息子にも怒ってしまったことがあり、それってもし水だったら笑って許せることで、こぼす内容によって怒りのトーンが違うのは子供にとって迷惑な話だよなとネネちゃんに話すと、笑って聞いてくれたことがありました。「そうなんだけど、分かるよ~。具材も一緒にこぼすんかい!ってなるよね。こちらはひと手間加わるわけだから。」いつもヒステリックに怒鳴っていた母、自分が親になりそういったお母さんになるのはやめようと思っていて、変に力が入っていた時期もあり、それを通り過ぎると、私も息子もお互いを信じ肩の力が抜けた時間がやってきました。言い過ぎたなと思った後は、その気持ちまでどちらもがお見通し。一旦は反省し、しょげていた息子もあっさり気持ちを切り替え、干されたビデオカバーを見て笑っていました。「ママ、こっちのドアノブにも干せるよ!」って、あんたが濡らしたんじゃ!!そんな笑いが絶えない日常、いいね。

お墓のことについて、とりあえず父に相談してみようか、そろそろ仕事復帰している頃だよねと思い、メッセージを送ってみました。すると、今電話で話せるとのこと。今日は休み?と思いながらかけてみると、思いっきり仕事中だと分かって。「今話していていいの?」「おう。」ITのベンチャー企業で経理をやっている父、従弟が社長であるからなのか、他の社員さんのテレワークが増えたからなのか随分ラフだなと思いながら話を続けることに。「まず、お父さん、術後の体大丈夫?」「今は週三日の勤務にさせてもらっているよ。仕事が終わってから、甲状腺の病院に行くから、今日は車で来た。」と教えてくれて、それ以外に術後の後遺症にも悩まされているようでした。「そうか。まだまだ落ち着かないね。あのね、お父さんが手術の日、病院まで行ったんだけど、受付でご家族の方は一人までと言われて、お母さんには会って行こうと思って連絡したら、めちゃくちゃ機嫌が悪かったの。」そうかと言って、父はやはり私が行ったことを知らなかったよう。何かひとつ気に入らないと、こういうことも伝えてくれないんだよなと思いつつ、せっかくの機会なので正直に伝えました。「お母さんのそういう態度、お父さんにも出る?」「いつものことだ。」「何かね、大きなことがあると余計に強く出てしまうのだと思う。お姉ちゃんと私とでは態度が違うの分かるよね。やっぱり言いやすい私には風当たりが強いんだ。Rも似ているから、ちょっと引いてしまっていて、私とセットじゃないとお母さんには会えないんだと思う。だから、なかなか会いに行けなくてごめんね。」「そうか。そうだな。困ったもんだな。」「お墓もずっと探していたのだけど、ちょっと気になった場所があったからパンフレットをお父さんの自転車のかごに入れておくので、時間のある時に見てね。」「お墓なあ、Rに迷惑かけることになるから、いらないぐらいだぞ。」話が極論過ぎて、ある意味父らしいな。私も息子に迷惑をかけたくなくて散骨してもらおうか等々思っていたので、なんだか笑えてきて。「その気持ちも分からないではないけど、今の場所から移した方がいいと思っているから、とりあえず見てもらえたら助かるよ。」「ありがと、ありがと。」その言葉を聞いた時、父の弟である札幌の叔父と重なり、泣きそうになりました。いつもクールな父と陽気な叔父は全然似ていないと思っていた、でも根っこにあるものは同じだったのかもしれないな、そして父は前よりも明らかに丸くなった。「あのね、お父さんに敢えて言うことでもないと思っていたのだけど、せっかく残してもらった卵巣がほとんど機能していなくて、それによって心身共にきつい時があるの。だから私にも余裕がなかなかなくてごめんね。」「ホルモンの関係か?」こんな話を男性である父に話すのもどうかと思った、そうしたらあっさり理解してくれて。1割話せば、全体を捉えてくれる時がある、その視野の広さに実は何度も助けられてきたのかもしれないな。オーストラリアに短期留学し、ゴールドコーストから一人暮らしの父にかけた電話。心が解放されていたからか、とても穏やかな優しい長電話でした。その時以来の長電話と心地よさを感じ、ゴールドコーストの波の音が聞こえてきて、胸がいっぱいに。本当にもうどうしようもないだめオヤジなのだけど、この糸電話は不通になることはなかった。

そして、ほっとし電話を切った後、急に幼少の頃の自分が蘇ってきました。それはきっとまだ幼稚園児だった時、父が佐賀の実家に車で帰ることになり、なぜか私だけがついて行くことに。名古屋から佐賀までの優しい旅でした。そんなに多くを語る人ではない、でも助手席に乗り、ぼんやりと景色を眺め、時々サービスエリアに寄り、なんでもない時間は穏やかに緩やかに流れていきました。そして、夕方実家に到着。運転席から父が出た後、助手席から私が降りると、「Sちゃんも一緒だったの?」と嬉しい驚きと共にみんなが迎えてくれました。パパ、何も言っていなかったの?とその時は思ったものの、今思えば急に思いたって連れて行ってくれたのかもしれないなと。それから何十年も経ち、父は家を出て、若い彼女と住んでいるかと思いきや、銀行で嫌な思いをした時は、なぜか呼び出されて。合併する側の時は良かった、でもされる側の時はシステムも全部変わって大変だな。ぽろっと吐いた父の弱音。自分の好きだったはずの銀行の形が変わっていく、その寂しさが垣間見えて私も切なくなりました。でもねお父さん、栄転で凛々しかった姿も、今の苦悩も、覚えておくよ。全部がその人でしょ。こんな風に、父とはずっとサイドを走っていたのかな、もしかしたら佐賀に行くドライブは今も続いていたのかな、そうだったとしたらやっぱりありがとうだな、そんなことを思いました。消さなくてもいい記憶が残っていたよ、それを拾うロードはまだまだ長い。お正月、なんとか乗り切ろうねと父と結んだ条約。面倒になっていなくなったら、本気でぶっ飛ばすことにしよう。サイドストーリーの終わりには何が待っているのだろう。