入学式前、一人で自転車を走らせていると、寒暖差の影響で頭がぼーっとしていたからか、突然段差でバランスを崩し、思いっきり人通りの多い歩道でずっこけてしまいました。それが、利き足ではない右側だったのでうまいこと転ぶことができず、右膝を強打。すれ違ったビジネスマン4人が、慌てて助けに来てくれました。「大丈夫ですか?」そう言いながら自転車を起こし、かごから落ちてしまったバッグを渡し、ゆっくり起き上がる私を見守ってくれていて。「すみません。ちょっと膝を打ってしまったようで。でも大丈夫です。ありがとうございました。」そう伝えると、気を付けてくださいねとやんわり言われ、優しくその場を離れてくれました。スーツを着た若い4人の男性、きっといい会社なんだろうな、雰囲気から伝わってきて。そして自宅へ帰り、膝を見てみると思いっきり擦りむいていることが分かりました。パンツスタイルでまだ良かった!交通事故に遭った20代の時、ストッキングにスカートを履いて自転車に乗り、一時停止無視の車とぶつかり、パンプスが吹っ飛んだ時のことがフラッシュバックしました。あの時、利き手である左側に飛ばされたのは、本当に不幸中の幸いだったのだと。咄嗟に守った頭、左肩を強打し、それでも車道に自分がいることがなんとなく分かったので、動こうとすると通行人の男性が、救急車が来るまで動かない方がいいと言ってくれて、通行の邪魔にならないように少しだけ体をずらしました。その方が救急車を呼び、私が運ばれていくのを最後まで見届けてくれて。そして、思い出して。あの時、救急車の車内でパンプスが片方しか履けていませんでした。扉が閉まる前、確かその方が車道に落ちていたもう片方を拾い、救急隊員に渡してくれていて。途切れた映像が何年も経ち、繋がりました。本当はとっても動揺していたけど、その優しさが嬉しかったんだ。さあ、擦りむいた膝で入学式へ行くよ。そんな日もいいじゃない。
前夜、息子も私もなかなか寝付けないことが分かっていたので早めにベッドに入る準備をし、彼の部屋まで行きました。「明日だね。中学生活、最初は緊張するかもしれないけど、お母さんと一緒に乗り越えよう。Rは波に乗った時、強さを発揮する。あなたなら大丈夫よ。大きくなったね。」ハグをしながらそう伝えると、うんと言いながら息子のぬくもりが伝わり、循環したのが分かりました。何よりのサプリだったね、お互いのね、そう思いながら就寝。そして、当日を迎えました。午後からの式だったので、のんびりと用意をし、息子は言われるがまま制服に着替えていて。この姿を両親に見せようか、でも母の不機嫌にぶつかってしまえば一撃でやられてしまうかもしれない、娘ではなく、母親として大事な一日だと思い止めました。そして、淡いクリーム色のワンピースを着ると、こみ上げそうに。シングルママになって、新しいステージに行くんだな。その後、少し早めに家を出て、桜並木の下で息子の制服姿をカシャリ。そして、二人で自撮りしました。この景色を残しておきたいなと。そして、ゆっくり歩き、中学校の門をくぐりました。待ち合わせをしていた広報委員の友達と写真を撮り合い、記念の一枚も収められて。すると、クラス名簿が配られていたので受け取ると、幼なじみのD君と仲良しのKちゃんの娘ちゃんとも一緒で胸がいっぱいになりました。私の気のせいでなければ、小学校の先生達の置き土産なのではないかと。この気持ち忘れたらいけない、そう思っていると子供達はどんどん昇降口へ入っていくので、その流れに乗っていくとあっさりお別れのタイミングがやってきました。「入学式が終わったら学活があるから、お母さん先に帰っているね!」そう伝え、バイバイ。撮った写真は数枚で、今日が分岐点、ここから第三章が始まるんだなと。「なんだか呆気なくお別れが来たね。」と隣にいた広報委員の友達に伝えると、「親離れも子離れもするいいタイミングだね!」と一緒に笑ってくれました。この気持ちを共有してくれる彼女にありがとう。
そして始まった入学式。後ろの席に座ると、息子がこちらを向き目が合いました。軽く微笑むと安心してくれて。式が進むと、それはもういろんな気持ちがこみ上げて。私はずっとこの日を待っていたのだと。蘇ってきたのは、教育実習の夜の静まり返った校舎で、社会科教員の恩師と一緒にいる時のことでした。私は大学4年、先生は38歳の男性で、どれだけお世話になったか分からなくて。1年生の担任で野球部顧問、朝練もあり、午後も練習の後、毎晩9時過ぎまで私の社会科の授業の反省会に付き合ってくれました。あまりにも帰りが遅いので、途中から校長先生が車で通うことを許可してくれた程、それはもうどの時間を取っても大事なものでした。職員室で資料を広げ、恩師と話し合っていると、いつも先生方の帰宅をこちらが見送り、最後は二人だけに。かなりの時間を使ってもらい、申し訳なくなって伝えると、自宅に帰っても居場所がないからと冗談めかして笑ってくれました。そして、なぜ教員免許を取ろうと思ったのか、なぜ中学の社会科なのか、日本史専攻しているのか、いろんな角度から掘り下げて質問されることに。「うちの家庭、2世帯で父が養子に入ってくれたんですけど、色々複雑だったんです。そんな時、中学で何とも言えない葛藤に気づいてくれた女の担任の先生に出会いました。初めて自分の為に泣けた気がしました。社会科の先生は、陸上部の顧問でもお世話になって、授業の半分は最近のニュースについてみんなと議論するようなそんな時間が好きでした。日本で起きていること、世界で起きていることを知りたかったし、先生の意見も聞けていつも考えさせられました。自分が多感な時に影響を与えてくれた先生達がいたから、中学校の社会科にこだわりたかったんです。日本史を選んだのは、祖父が戦地に行って帰ってきてくれたから。地理が好きなのは、多分父からの遺伝です。そんな父が、職場で色々あり、大学2年の時家を出て行きました。本当に教員免許どころじゃなくて、大学中退が目の前に迫っていて。それでも、アルバイト先の先輩だったり、沢山の人達が応援してくれてここまで来ました。それが、私が見てきた『社会』です。ここにいられることは、特別なことなんです。」そう伝えると、いつもはよく話す先生が、何とも言えない穏和な表情で、そうかと頷いてくれました。外は真っ暗、誰もいない校舎で、聞こえる音は自分達が発するものだけでした。いつも会話は止まらず、二人で盛り上がっていて、それでも話し足りなかったのか、教育実習ノートにはいつも赤ペンで、時に脱線しながら授業について書いてくれていました。その先生が、私の過去を話した時だけは心に留めておいてくれて。それが、息子の中学校の入学式で分かったような気がしました。恩師は、私のサービスエリアでいてくれようとしたのかもしれないなと。ずっとそうやって走ってきたんだよね、だから眺められる景色に辿り着いた、だったらこの4週間をとことん味わいなよ、僕も一緒に楽しむから。そんな気持ちが24年経って届き、泣きそうになりました。母や祖父に当たられ、父の一人暮らし先に行き、若い女性に遭遇した、私の学費はこの人のブランド品に変わっているのかな、そう思ったら悲しくて、何もかも投げ出したくなり、翌日の教職課程をさぼりました。試験でわざと30点を取り、諦める理由を自分で作ろうとすると、違和感を覚えた教職課程のアドバイザーの先生が研究室に呼んでくれました。その時届けてくれた想いが、どれだけ嬉しかったことか。いつもエールを送ってくれた仲間がいる、本当に諦めなくて良かった。あの時心が折れていたら、今日という日は、また違った気持ちでいただろうと。実習先の恩師に、改めてお礼を伝えたい。息子が中学生になりました。先生との時間、もう一度全部思い出します。
桜が舞い、式の最中に雷が鳴り出した。自分が歩いてきた道のようだ。大事な3年間が、またここから始まる。