急に冷え込んでもあたたかい

ドラフト会議を見て息子と盛り上がった後、保健体育のテスト勉強を一緒にやり始めました。中学3年間は付き合うとしても、高校に行ったらさすがに自分一人でやってくれるよね?と未来を想像してしまって。大学のレポート提出で資料が必要だと言われたら、あれこれ選書をして世話を焼いてしまいそうな自分がいるのだけど、突き放すのも大事なことだと頭の片隅にはあるのでタイミングを待とうと思います。自分の足で歩けるの、本当は知ってるよ。

大学在学中、最後の集大成である卒業論文で苦戦し、いろんな図書館で古い書籍を何冊も借り、机の隣に積み上げました。まずは、教授の助手でもあった男子大学院生さんに相談させてもらっていて。こういう時は経験をされた方にアドバイスを求めるのが、近道でもあり概要が掴めるような気がして、話を聞くことに。会話をすることで、方向性が見えてきました。奈良時代の衣服についてまとめようと思ったら、思いのほか資料が少なくて、そういう時はどうしたらいいのかと。時代が古ければ古い程、情報は少なくなるよねと理解を示した上で伝えてくれました。「奈良時代と絞らずに、古代史という形で広げたらどうか。」と。目から鱗の発想でした。研究するテーマを決めて掘り下げるのだから、狭く深くと勝手に頭が思い込んでいました。だから、ピンポイントの資料がなかなか見つからなかったのかもしれないなと。古代史と広げれば、衣服に関する内容はもっと拾えるはず、そう思いました。ジャージを着て、原稿用紙に書き続け、雪崩が起きそうな本の山に慌て、そして煮詰まってくると外を走って。下書きを全部した後、束になった状態でもう一度院生の方にアドバイスをお願いし、これならいけると太鼓判を押してもらいました。そして、大事なことを伝えてくれて。「正式な卒業論文は大学に保管される。だから清書したものは一度全部コピーをしておくといい。僕も、いい刺激をもらったよ。ありがとう。」その言葉を聞き、なんだかぐっときました。こちらの方こそ、最後まで見届けてくれてありがとう。走ったのは自分だけど、先輩の助言があったから迷うことはなかった。その後、父のマンションに呼び出され、一緒に夕飯を食べている中で伝えました。「卒業論文が書けて提出したから、今度ゼミの教授と口頭諮問があるの。」「随分本格的だな。」と驚いていて。「書いた内容について細かく突っ込まれるみたい。そこでしくじると卒業できないかも。」冗談でそう伝えると一緒に笑ってくれました。そして、口頭諮問当日、一人一人が順番に呼び出され、いよいよその時が。聞かれることはなんとなくイメージできていたので、落ち着いて答え、全てのミッションは終わりました。寂しいようなほっとしたような・・・これで本当にあとは卒業を待つだけなんだな。このキャンパスとも、もう少し。その後、最後の成績を受け取ると、日本史のどの試験よりも卒論の点数が高くて感無量でした。どのテストも、いろんな意味で余裕がなかった、でも卒論だけは味わうことができたんだなと。大学生らしい自分がいた、一字一句に想いを込めました。コピーした卒論は、振り切るように実家を出た時に置いてきてしまったのでどこかに行ってしまった、でも原本は大学に保管されている、いつの日かもう一度手に取ることができたらと思っています。埃臭い研究室の片隅に、そっとしまわれていることを願って。

最近、急に肌寒くなり、気持ちも沈んでしまいそうだったので随分前に通っていたカフェへ行ってきました。すると、店内があたたかかったこともあり思考が巡り出して。一人娘の母は、子供を授かり父が養子に入り祖父母と同居。姉を妊娠中、父が浮気をしたんだとか。ホルモンバランスが崩れやすい時期、母の人格に大きく影響してしまったのは、この時だとずっと思っていました。厳格な祖父の元で育った母は、いつもどこかで怯えていた、その不安定さの中で父のことがあり、何かが崩れてしまったのではないかと。でも、それだけじゃないことに気づきました。その時、祖母に相談した母は言われたんだそう。「父親のいない子にはさせないであげて。あなたが我慢すればそれでいいから。」と。その言葉を聞き、母はとても悲しかったのだと思いました。祖母は、息子を一週間で亡くしている。だから、その気持ちは分からない訳じゃない。でも、生まれてくる子供や世間体を気にして、母の視点には立てなかった、それが途轍もなく辛かったのではないかと。こんな大事な時期に浮気をされて悲しかったね、でも私が側にいるよと、言ってほしかったのではないか、その言葉があれば、母の心は壊れるのではなくもう少し包まれていたような気がしました。愛されているという実感がほしかった、それを私一人に求めすぎてしまったのかもしれないなと。祖母は、私が生まれて間もなく乳がんが発覚。闘病する中で、もしかしたら何かしらの気づきがあったのではないかと思いました。祖母と幼い私が手を繋ぎ、お散歩をするその時間は愛に包まれていて。そこに、後悔の気持ちがどこかで含まれていたような気がしています。もっと娘の気持ちに気づいてあげられたら良かったと。体が弱く、姉妹の中で一番小柄だった祖母は最後まで売れ残りました。そこで劣等感を抱いてしまった、でも戦争から帰還した祖父がもらってくれた、こんな私でももらってくれる人がいるんだ、だったら何が何でも家庭を守ろうと思ったはず。それでも、授かった息子は生後間もなく他界、やっぱり私の体が弱いせいだと祖母は自分を責めた、祖父に対しての申し訳なさが押し寄せた、そんないろんな気持ちまでもが母に行ってしまったのかなと。握った手のぬくもりは、今でもはっきり覚えていて、祖母の心を改めて感じた時、母の痛みにも触れられたような気がしました。黄金色の秋の空の下を歩いた日、おばあちゃんのあたたかさがすぐそばにあって。だから、私はぎりぎりのところで大丈夫だったのかな。祖母との夏の記憶だけごっそり抜け落ちているのも、きっと理由があるはず。卒論を読み直して、そこにヒントがあったら面白い。どちらも歩いてきた大事な歴史だ。