もう一度歩いてみる

息子の朝ごはん、毎回あまり食べたがらないので苦戦していて、それでもうどんならスルッと入ると思い、本人に聞くと食べると言ったので、小さめのサイズを用意して自分の身支度を始めました。すると、シンクには半分ほど捨てられたうどんが。こっそり隠そうと思ったのだろうけど気づいてしまい、こういうことが何度もあったのでさすがに怒ると、何も言わずに学校へ行ってしまいました。そして、なんとかこちも気持ちを切り替えようと帰りを待っていると、ただいまも言わず、制服を脱ぎ散らかして友達と遊ぶとだけ言い、すぐに出て行ってしまう始末。明日から学校のキャンプなんだよ、大丈夫なのか?と心配になりながら帰りを待ちました。そして帰宅後に夕飯、なんとなく気まずいまま、週末に持ち物の準備を一緒にしたからあとは一人で確認してねとだけ伝え、お風呂に入って出てくると、荷物を全部出し、栞を持って大泣きしている彼がいて。外泊する時のこうした準備が苦手なことは知っていました。でも、言動に思う所があったので、時に突き放すことも必要だと考えていたら、こういう展開になっていてやや困惑。ひとつ息を吐き、できるだけ冷静に伝えることに。「なぜお母さんが怒っているのか、自分で考えるのも大切なことだよ。5年生のキャンプ直前に、Rがコロナにかかってしまって大泣きする姿を見て、母親としてもっとやれることなかったかなって沢山考えた。今回、また1週間前に風邪を引いてしまったから慌てて小児科に連れて行ったの。今度こそできなかったことを取り返しに行ってくれたらいいなって。少しずつ治ってほっとしていたけど、一番栄養を摂らなければいけない朝ごはんも捨ててしまったり、前日なのに準備もしないで遊びに行ってしまったり、さすがにお母さんも困ってしまったよ。でもね、きっといい思い出になるから、一緒に準備しようよ。お母さん、付き合うから。」そう伝えると、余計に泣いてしまいました。奥深くに届いたんだなと。中学に入る前、6年生の秋から卒業にかけて、心理カウンセリングと思春期の繊細な子供への接し方などを学び、ちょっとした資格を取っていて。それでも、自分はまだまだだなと反省の日々。今日は息子の性格を理解した上で、話すことができたかなと思っているとひと言。「準備したスポーツバッグではなく、学校で使っているリュックとエコバッグで行くみたい・・・。」は?「なんでもっと早く言わないの!」寝かせる30分前に言うセリフじゃないでしょと思いながら、これはもう先輩ママのD君のお母さんに直接聞いた方が安心だとメッセージを送ることに。すると、いつもの穏やかな返信がありました。『エコバッグは可で、リュックだけだと厳しいかも。3人いながらコロナ期間だったから何気にキャンプは初めてで、様子がわからないんだよね。雨じゃないといいね。』上の子達二人は行けなかったのだと思うと、改めてイベントができる大切さを痛感しました。笑顔の絵文字を添えてくれた彼女、数々のピンチを何度も救ってくれたことを忘れたらいけないな。確信が持てたので、息子と慌てて荷物をリュックに入れ換え、なかなか寝付けないことを想定し、ヤクルト1000を飲ませてベッドまで行くと、すぐに爆睡してくれました。そして翌朝、お弁当を準備し、早くにお見送り。ヤクルトスワローズの帽子を被り、笑って行ってきますと出て行った息子を見て、ちょっと泣きそうになりました。この日を迎えられて本当に良かった。

その後、仮眠を取り、今日はパソコンを開かず、自分が歩いて来た道を実際に辿ろうと思い、電車に揺られ20代の頃に過ごしたことのある場所へ短時間だけ出向きました。20年近く前にタイムスリップしたような不思議な気分でした。私に子供ができるなんて。苦しいこと、それなりにあるけど、それは覚悟の上だけど、かわいい男の子とのかけがえのない生活が待っているよ。その頃に通っていた道で、若い自分に伝えました。祖父は、祖母の弟とは犬猿の仲でした。会えば、喧嘩をしたり、敢えて口を利かなかったり。そんな中、私のことを可愛がってくれたそのおじさんは他界。畑仕事の最中、心筋梗塞で心臓を患っていたおじさんは、急に異変を感じ、車で休むとそのまま逝ってしまいました。葬儀に駆けつけ、祖父は足が悪かったので参列は控え、後日ご実家へ母の運転で手を合わせに行ったのだそう。祖母の義理の妹であるおばさんが後から教えてくれました。「最初は手を合わせていたのだけど、途中から声を上げて泣き出してね。義兄さん、よく来てくれたねって背中をさすっていたら私までまた泣きそうだった。あんな姿初めて見たよ。」いつも気が強く負けん気が強く、弱さを見せるなんてくそくらえだと思っていたおじいちゃん。でも心の一番底にあるものは、こういった感情であることもなんとなく知っていました。それが初めて表に出たのだと思うと、私も涙が溢れそうでした。その後、姉にも私にも男の子ができ、なんとか名古屋にいる祖父の病室まで連れて行くことができて。間に合って良かったという気持ちと、ひ孫の顔を見たらおじいちゃんは逝ってしまうという両方の気持ちが交錯し、胸が詰まりました。体が辛そうな中、ひと言ふた言交わし、絶対に忘れてはいけないと思っていたカメラを取り出すことに。ベッドで横たわる祖父と息子がひとつの枠の中に入り、シャッターを押す右手が震えました。この一枚は、もしかしたら私にとって祖父にとって、私達家族の歴史にとって何より大切な記録物になるのではないかと思いました。バトンは確実にひ孫へと受け継がれた、たった一枚が証明してくれている。それから、数週間後、祖父は誰もいない早朝の病室で息を引き取りました。いつも胸のどこかで戦友のことを思っていたおじいちゃん、待っていてくれる家族がいるからとその気持ちだけは消さないようにと過酷な戦いから帰還してくれました。その一生の最後に目にしたものが、家族の顔ではなく病院の白い天井だったのかと思うと、胸が痛いのだけど、おじいちゃんが遺してくれたものをひとつひとつ拾い集めるのが私の使命であり、祖父が喜んでくれるような気もするので、歩みを止めないでいようと思います。

ゆっくり電車で戻り、ファミレスに寄り、息子のキャンプのタイムテーブルを見ました。野外炊事の時間、別の場所にいるのに同じように時は流れ、心はそばにいるんだなと。のんびり自宅に帰り、ひとりで夕飯を食べながらプロ野球を観ました。野球中継がある日で良かったなと、安堵している自分に笑ってしまって。母のことで距離を取った8年前、勇気を出してカウンセリングに行くと、男性の臨床心理士の先生が7回目であっさり突き放してくれました。「最後の答えは自分で見つけてください。」と。今日みたいな日を自分で辿り、解を探していく私が先生にははっきり見えていたのかもしれないな。惜しい所にいる、そんな意味深な言葉を思い出し、深夜に微笑みたくなりました。解の公式のようにはいかない、だからこそいろんな色を持つ言葉や想いを感じていたい、その先に見えたものがあったらいいなと思った日。かまど係の息子は、何を掴んで帰ってきてくれるだろうか。やっぱり再会は笑顔がいいね。