慌ただしい3月中旬、週が明けて学校から帰った息子が伝えてきました。「今日お休みの子が多かったんだよ。」「何か流行っていたりする?」「多分、胃腸炎。」ああ、小さい時に息子がかかり、時間差でこちらも移ってしまったのもこの時期だったなと懐かしんでいる場合ではない。「手洗いうがいを徹底しようね。」そう言っていつもの1日は終わりました。そして翌日、何があるか分からないから、やれる雑用は先に済ませておこうと思っていると、学校からメッセージが。息子のクラスが明日から学級閉鎖になることが分かり、そんな予感もしていてそこまで驚かなかったものの、卒業式まであと数日だったので、本当に貴重な時間を日々過ごしていたんだなと改めて思いました。その後、いつもの公園で待っていると、市内のアナウンスが。その日は3月11日でした。近くの高校でも放送が入り、テニスコートでポーンポーンという音も消え、2時46分に。黙とう。北に向かって手を合わせ、目を閉じました。オーストラリアから1日遅れでなんとか帰国し、出勤した大学図書館。本はかなりの数落ち、先輩が館内アナウンスで整理のお手伝いを呼びかけるといろんな方達が来てくれました。まず、みなさんも大変な中来てくれたお礼を伝え、分類番号の説明を簡単にさせてもらった後、書架に戻す作業をお願いしました。その途中には何度も余震があって。「本棚から離れてください!」その度に大声を上げた自分を思い出しました。お手伝いに来て頂いた方達を怪我させる訳にはいかない、本当にもういろんな気持ちでした。その中には白衣の学生さんもいて。実験中に僕達も危なかったと話してくれました。こちらはいいから実験室を片付けてくださいと伝えると、ゆっくりやるんで大丈夫ですと笑ってくれて。この日に手を合わせる度に、いろんな場面と人のぬくもりを思い出します。ぱっと目を開けると、テニスコートにいた学生さん達は、まだ目を閉じ祈りを捧げていました。そして、再度校内アナウンスが入ると、先程のようにプレーを再開していて。この1分は東北へ、どれだけ年を重ねても忘れないでいたいと思っています。息子と歩いた仙台の地、松島の景色はずっと心の中に。
そんな中、大きな荷物を抱えて息子がやってきました。「明日から学級閉鎖だから、一気に荷物を持って帰ってきたよ。」と。担任の先生も複雑な心境だろうなといろんな想いが巡って。それでも、バタバタの日常が待っていたのであっという間に夜になり、ようやく一人になった時、静けさの中でいろんな情景がゆっくり浮かびました。それは、祖父といつも何気なく見ていた大相撲のテレビ前。千代の富士関が勝つと、おじいちゃんはしみじみと伝えてきて。「勝ったら本当はもっと嬉しいはずなんだよ。でも、千代の富士は表情に出さない。その姿もまた格好いいな。男の中の男だぞ。」と。勝負強さだけでなく、横綱としての振る舞い、そのひとつひとつを魅了する姿が大好きだったおじいちゃん。男性が惚れる男性って格好いいなと子供ながらに思っていました。それから何年も経ち、アメリカ育ちの日本人男性が恋人に。遠距離恋愛の末、そばに行ったものの、仕事が生きがいの彼は子供はいらないし、私と二人でアメリカに住みたいと。何度も喧嘩し、その度にお互いが辛くなり、別れを選ぶことに。100%俺が悪かったと言った彼。その言葉の何がすごかったって、その数字はそもそもあり得ない訳で、それだけでなく、彼は建前でなく本心でそう口にしてくれたのが分かったから。おじいちゃんが言っていた男の中の男とは、そういう人を言うのかな、何年も経って改めて思いました。そして、姉と前回カフェをした時、彼と共通の友達がいるネネちゃんは、本当にもしかしたら近況が分かるかもしれないと話してくれて。私は知りたいのだろうか?自問自答しました。住み慣れたアメリカに彼の幸せはある、日本にいたら仕事に追われどこかで辛そうだった、だからホームグラウンドに戻って心から笑っていてほしい、でもそれって私の勝手な願いだよな、そう思って。そんな感情を読み取った姉は、分からないかもしれないけどねとだけ伝えてくれました。もし聞いて、アメリカ以外の場所にいることが分かったら、ネネちゃんはきっと私には伝えないだろうと。
私達は、親ガチャに失敗したんだよと姉は言った。本当にそうだろうかとどこかで思っていて。彼女はいつもそうやって妹の気持ちが少しでも晴れるようにと、言葉のチョイスやタイミングを考えてくれていて、少なくとも姉妹ガチャは出会うべくして出会ったのだとそう思っています。息子の部屋で、書いたこの記事。こんな時間までもが綴じられていくんだなと。卒業式まであと7日。同じ時を過ごしてくれてありがとう、息子に伝えたい気持ちは盛りだくさん。戻さなかった姓で、卒業証書を受け取るよ、それは私達親子にとってとても特別なこと。乗り越えた証。