国を越えて

いよいよ今日から侍ジャパンのアジアチャンピオンシップが始まる夕方、いつもの公園まで息子をお迎えに行くと、ランドセルを背負いながら伝えてきました。「インフルエンザが流行って、明日から月曜日まで学級閉鎖なんだって。」それはそれは、タイミングがいいんだか悪いんだかと苦笑してしまって。「Rは今年ワクチンを打っているから大丈夫な気がするけど、気を付けようね。今夜から4日間侍ジャパンの試合があるから、応援しよう!」そう言って大盛り上がり。そして、ぽつりとひと言。「あ~あ、明日の給食ポークカレーだったんだよ。」「はいはい。だったら今夜はポークカレーにするよ!」と一件落着。平和な悩みに笑ってしまった夕暮れ。そして、気持ちは東京ドームへ向かいました。この4日間を忘れないでいよう。

夜、約束通りにカレーを食べ、何もかも済ませた後、テレビの前に二人で座りました。そして、緊迫した初戦の台湾戦、森下選手(阪神)のホームランで、流れは一気に侍ジャパンへ。リリーフで田口投手(ヤクルト)も出てきてくれて、息子のボルテージは上がっていきました。結果は4対0で勝利し、井端監督がほっとされた表情をしているのが嬉しくて、一緒に歓喜し、眠りの中へ。翌日、朝から息子の宿題を教え、相変わらず算数でぐずってしまうので、困惑した時間。長期休みの度に乗り切ってきたよねと自分を奮い立たせ、何とか終わらせることができ、ほっ。そして、運命の韓国戦へ。手に汗握る展開の中、2対1で勝利し、最後まで見届けた後、翌朝を迎えました。その日は、オーストラリア戦のデーゲーム。井端監督とオーストラリアの監督が試合開始前に顔を合わせた時、何とも言えない気持ちがこみ上げて。以前、中日でプレー経験のあるニルソン監督(登録名、ディンゴ選手)は、もしかしたら中日で井端監督と共にいた時期が重なっていたのではないかと改めて調べてみると、ビンゴでした。それは2000年、私が大学生の頃、二人がドラゴンズのユニフォームを着てプレーされていて、23年もの時を経て、今度は母国の監督としてまた顔を合わせることになるとは、ご縁って不思議なものだなと感慨深くもあって。学生時代、どんなに忙しくても中日の試合や選手をチェックしていました。日曜日、テニスコートの受付バイトの前には、『サンデードラゴンズ』(CBC)を必ず録画して、家に帰ってから観ることを楽しみにしていて。オフシーズンであっても、キャンプの情報など少しラフな選手の表情も伝わり、ずっとドラゴンズがそばにあってくれたのだと改めてその時間を思い出しました。試合は、10対0という大差で8回コールド日本勝利に終わり、息子が伝えてくれて。「ボク、オーストラリアのチーム、なんだかいいなって思ったよ。ユニフォームの緑もなんか好き。」「それは嬉しい。監督は中日でもプレーされているし、お母さんもこの国がとても好きだからこれからも応援しよう!」そう話すと乗ってくれました。さらに翌日、宿題のワークに苦戦した後、オーストラリア対台湾戦を観る為にテレビを点けることに。前日、SNSでオーストラリアのチームが、日本の応援に敬意を払い、自分達の試合も応援してほしいと呼びかけるメッセージをたまたま目にしました。現地に行って応援したいな、でも学級閉鎖中で外出は避けた方がいいんだよなとあれこれ思っていると、オーストラリアを応援する日本のファンがどんどん増えていき、その声援がテレビを通して自分の心に届き、泣きそうになりました。弱っていた20代、思い切ってオーストラリアに短期留学すると、あたたかいホストファミリーに出会い、学校や街で沢山のオージーの明るさに助けられ、私のハートはもらった優しさで溢れそうになりました。この国に助けられた、だから自分も恩返ししたいと思った、でも東京ドームに行けない、そんな時チームの垣根を越え、国を越え、12球団のユニフォームを着たファンの方達がオーストラリアに大きな声援を送ってくれていました。ありがとう、本当にありがとう。そして、実際に中日の応援歌でもあった『狙い撃ち』は、オーストラリアチームからのリクエストで、その曲もファンのみんなが歌ってくれました。それは、私が小学生の頃、『燃えよドラゴンズ!』と共に、最初に覚えた曲でした。『ゲーリー、ゲーリー、ホームラン♪』とナゴヤ球場のライトスタンドで叫んでいた自分はいつも胸の中にあり、その度にゲーリー選手元気かなと思っていました。それぐらい思い入れのある曲が、野球ファンの方達の想いに乗って、オーストラリアの選手に届き、同点に追いつき、これが“思いの力”なんだよね、ずっとこの光景を目にして、感動して、だからプロ野球ファンでい続けているんだなと堪らない気持ちになって。その場に集まってくれた方達へ、心からありがとう。

その夜は、日本対韓国の決勝戦。始まる前に、息子はYouTubeから日本選手の応援歌を流して、覚えようとしていました。試合は、予想通り緊迫した接戦に。広島の小薗選手や坂倉選手がバッターボックスに立つと、外野席のファンがスクワット応援することを知っていました。今年ヤクルト戦を観に行った時、3試合中2試合が広島戦。その応援を目にして、すごいなという感動をそのまま広島ファンの担任の先生に報告。いいな~という感想が返ってきたことを思い出しました。今度は、侍ジャパンのファンとして、ひとつに。延長戦、1点ビハインドの10回裏、息子と本気のスクワット応援を自宅でしていると、坂倉選手が犠牲フライを打ってくれて同点。二人で喜び、ツーアウト満塁で門脇選手(巨人)がバッターボックスへ。祈るような気持ちで声援を送ると、ボールが外野へ抜けてくれてサヨナラ勝ちの瞬間が来ました。息子と叫び、抱き合い、井端監督が胴上げされると、一気にいろんな思いが駆け巡りました。中日で『アライバコンビ』と呼ばれた二塁手の荒木選手と遊撃手の井端選手は鉄壁の守りで、ファンを沸かせてくれて。姉夫婦の新婚家庭に遊びに行くと、その日はデーゲームだったのか、ネネちゃんが青いメガホンをバンバン叩き、「アライバ~!!」と叫んでいて、近くにいた義兄が私にひと言。「君のお姉ちゃん、ちょっと引くんだけど。」そう言われたらもう笑うしかない。中日ファンの義兄でさえ引く姉の応援は面白かったけど、それだけ魅了してくれる選手であることも知っていて。さらに、2013年のWBC、侍ジャパンのユニフォームを着てここ一番という時に井端選手は大事なヒットを重ねてくれました。その活躍もあり、チームは準決勝のプエルトリコ戦へ。そこで、2点ビハインドの中、2塁ランナーの井端選手と1塁ランナーの内川選手がダブルスチールに失敗し、無念の敗戦へ。誰も悪くない、だからどうか自分を責めないでほしい、ずっとそう思っていました。それから10年後、井端監督が選手からコーチ、監督へと就任しJAPANのユニフォームを着て胴上げされた時、その日のことを一日たりとも忘れたことはなかったんじゃないかと、中日のドラフト5位から入団して努力を重ね続けてくれた井端選手をずっと見てきたからこそ、感無量でした。「2013年のWBCで井端監督も選手として活躍してくれたんだよ。」と息子に話すと答えてくれて。「え~、そうだったんだね。ボクが生まれた年だ。ボク、もう生きていてその大会があったんだね。」そう言われ、はっとなって。2013年2月に生まれた息子は、3月のWBCで私に抱っこされ、その試合を聞いていた。テレビの前で泣いていた母親を、不思議そうに見ていたのかもしれないなと。それから10年、野球に刻まれていく歴史をどれだけ見せてもらっただろう。この4日間の価値を改めて知る。チームを越え、国を越え、年月を越え、井端ジャパン、夢を見せてくれてありがとう。