今年の夏休みは、ずっと息子と一緒にいたので、笑ってしまうぐらい大変だったこと、そんな中でも途切れず記事を公開できたことにほっとしています。昨晩は、旭山動物園ごっこで盛り上がり、ようやく寝てくれました。ひとつひとつのぬいぐるみを、彼は“家族”と言う。そこに色々な意味が込められているのだろうと思うと、全ての気持ちを抱きしめたくなります。まだ小さかった頃、テーブルにいたくみちゃんの前で息子が吐いてしまい、散々な目に。手洗いしても匂いが取れなかったので、今度のゴミの日に捨てようと本人を説得し、ゴミ箱の上にある窓枠に置いておくと、何かある度に一生懸命くみちゃんに話しかけている息子を見て、絶対に捨ててはいけないなと思いました。その話を改めて伝えると、「捨てられなくて良かったね!くみちゃん。」と頭をなでていて、なんだか微笑ましくなって。私と同じ誕生日のくま、さよならしなくて本当に良かった。
夏休み最終日、両親に北海道みやげを届けに訪問しました。すると、母が寝込んでいて事情を聞くことに。一度目の目の手術の経過がいいのでそれは大丈夫だったものの、頭痛が酷く起き上がれなくなっていたそう。父は、全く気遣う様子もなく、洗濯物は畳まれない状態で山のようになり、シンクには食器が溜まっていて、状況を理解しました。父の態度も母の不調に拍車をかけているんだろうなと。その後、食べたいものを聞き、父にもついでに何か買ってこようかと聞くと必要なさそうだったので、息子と二人で買い物へ行くことに。猛烈に頭痛と吐き気があったものの、ここは気力で乗り切ろうと思い、お寿司を2パック買って届けると、1パックは夜に食べるわと言われ、やれるだけの家事をこなしました。すると、父が残っていた鯖寿司を食べ出し、それを見た母が私のそばに寄ってきて、小声でひと言。「お父さんが食べちゃったから、もう一つ鯖寿司を買ってきて。」はあ?と思いながら、これが子供の頃から悩んできた実態なのかととことん冷静に受け止めることができ、父に対してかめはめ波だけでは足りないなと痛感しました。『鬼滅の刃』に出てくる善逸の霹靂一閃(へきれきいっせん)の技も覚えることにしよう。じいちゃんのところに行ったら修行させてくれるかな、3分で逃げ出すかな、そういえばかめ仙人もじいちゃんだったなとどうでもいいことを思い出していたら、少しだけ気が紛れました。父よ、余計な仕事を増やすな!大体お父さんがそんなだからこっちで玉突き事故が起きるんじゃ!!それを見て見ぬふりしてるってどうよと心の中で思いながら、母の心身が少しずつ上を向いてくれたのでほっとしました。その後、気になっていた祖父の話を聞いてみることに。「私がお墓を守っていく上で、もう一度我が家の家系について考えてみたの。おじいちゃんって何人兄弟だったの?」「確か8人ぐらいだったような・・・。」と母。「ぐらいって何?そんな曖昧だったの?おじいちゃんが末っ子だったのは知っているんだ。」「おじいちゃんの兄弟、戦死したり病死したり、自殺された方もいて人数がよく分からないの。」その話を聞いたのは初めてで、はっと息を飲みました。おじいちゃんはこの話を避けていた。そして、遠い記憶を運んで来てくれました。
自分の戦争体験は語ってくれた祖父。そんな中で、「おじいちゃんの兄弟はどうだったの?」と聞くと、「まあいい。」という返事があり、少し俯いた祖父の姿がそこにはありました。その、まあいいという言葉には、こんな理由が隠されていたなんて。戦後、シベリアに抑留された祖父は、葉っぱに付いた雨水を飲むこともあったと話してくれました。凍傷にならないよう一生懸命に自分の体をこすり合わせて体を温め、食べられる植物選び、飢えを凌いで、いつ終わりが来るかも分からない労働を強いられていたと。「おじいちゃんをそこまで頑張らせてくれたのは、何だったの?」「家族、待っていてくれる家族がいると思うと、それだけで頑張れた。その気持ちだけだったよ。」この質問を投げかける度、祖父はこう答えてくれました。その言葉には何とも言えない温かみがあり、小さな小さな希望を持って絶望の中を必死に進んでいたんだろうなと。そして、本当にその時はやってきた。日本に戻ってこられた喜び、家族に会えた奇跡、そして、そのタイミングで兄弟の訃報を聞いたのではないかと。何セットもある戦争のビデオを購入し、早く寝付いても深夜に起き、一人でそっとその映像を見ている祖父を何度も見ました。昼間にはいつもNHKが点いていて、『ためしてガッテン』で見たマメ知識を話してくれたりもしました。そんな祖父が、静まり返った深夜に戦争の映像を見て、思い出していたのは戦友だけでなく、お兄さん達のことを想っていたのだと、そういうことかとようやく頭の中で繋がってくれたようでした。その横顔は少し切なく、いつも目に涙が溜まっているように私には見えて。会えると思っていた家族を想い、それが原動力だったのに、戦争がもたらした“死”というものは、祖父の中であまりにも大きく膨らんでしまったんだろうなと。私が男の子を授かったこと、その答えはもう見つけたのかもしれない。
子ども達を公園で遊ばせ、姉に祖父の兄弟の話をすると驚かれ、そして私の話をしてくれました。「Sちんはもっと小さい時は本能のままに生きていたの。それがとっても子供らしかったのに、いつの間にか空気を読むようになってしまって、家庭環境がそうさせたんだろうなって思った。お母さんは、お父さんから承認されない気持ちを、Sちんで貯金しようとしている気がするよ。ずっとそうだったよね。今日、R君がおやつを1時間半かけて食べる時がある、その時間がとても幸せだって話してくれて、今日一番の収穫だった!R君が伸び伸びいられていて、そんな話を聞けて嬉しかったよ。Sちんといると素の自分を出せるんだろうなって。」玉突き事故ではなく、息子と過ごす穏やかな時間を感じてくれたネネちゃん、負の連鎖断ち切れそうだよ。8年間不妊治療をして、男の子を授かった姉の一か月後に生まれた息子。その二人が仲良く遊んでいる姿を見て、泣きそうになりました。きっとこんな時間を、人は幸せと呼ぶのだろう。苦しかったからこそ、そのひとときの優しさを知る。生きるってきっとそんなことの積み重ね。