できないことよりできること

息子が休校になってから毎日のように教え始めた勉強。不思議なことに、日を追うごとに二人の絆が深まっていくようで。大変なのはみんな一緒。その中でも、子供がかかる負担を大人が考えていく、そのことがどれだけ大事なのか痛感しています。きっとこちらが想像するよりも、もっと大きなストレスなんだろうなと。

急に決まった休校の中で、2月末に先生が渡してくれたプリントは1年生の復習なども含まれていました。漢字も習ったものを確実なものにする練習、そして書写など。これなら自分でできるね、できない時は聞いてねと短時間だけ開いたパソコンの時間。そして4月、全く習っていない2年生の問題を予習していくような課題が学校から出され、これは隣でやっていくしかないと腹を括った日。誰かが踏んだ雪道の後ろを歩くのが楽なように、復習も一度辿った道を行けばいい。でも、予習はそんな訳にはいかない。深さも固さもなんだかよく分からない雪道を自分の足で歩いて行く。それがどれだけ続くのか分からない、その不安感を払拭するためにもこちらが毅然としていることが一番の安心感になるのかなと。「学校では皆のペースだけど、おうちでは自分のペースでいいんだよ。分からないことは何度もやっていこう。2歩進んで1歩下がる、その繰り返しでいいじゃない。」「うん、ボクねママと一緒がいい。」何年かして、この時期を振り返った時、とても意味のある時間だったなと実感出来るまで頑張ろう。
そんな中で学校から送られてきたオンライン教材の資料。IDとパスワードが付与され、ノートパソコンからログインしてみました。通信教育で司書教諭の資格を取った時、パソコン一つで大学の方達とやりとりをさせてもらい、レポートも試験も、結果も論評も全て、会話なく終わったことが思い出されました。なんだかすごい時代になったな。せっかくなのでパソコンを使い、以前にやった算数の問題を復習として息子にやってもらうと、すっかりやり方を忘れ、ぐずってしまいました。一度ぐずぐずになると手が付けられないので、教材を嫌いになってもいけないと思い、「明日にしようか?」と私も半分イライラしながら本人に言うと、そっと首を振る息子がいました。偉いぞ、そうだよね。中途半端に終わらせるのが良くないこと、それはこちらが教えなくても本人が気づいていました。そう、誰かに負けてもいいけど自分には負けたくないという気持ち。できないことで泣きたくなるのは不甲斐なさから、でもやり遂げたい。そんな場面を一年間見てきて、またこんな非常事態で見せてくれるとは。問題そのものは忘れるかもしれない。でもね、諦めなかったその心は残るよ。いつか生かされる、そのことをお母さんは知っているから。

大学1年の時、第二外国語で中国語を選択し、その教室でたまたま隣になった別の学科の女性となんとなく仲が良くなりました。話すといってもその講義の前だけ。それでも信頼してくれたのか、ふと伝えてくれたことがありました。「私ね、色々あって高校を中退したの。それでも、ここで終わらせる訳にはいかないと思って、大検を受けて、ここの大学に入ることができたの。皆とはちょっとルートが違うんだ。なんかすごく弾けられるかっていうとそうじゃないし、でもほっとした部分も大きくてね。あの時、腐らなくて良かったなと思うよ。」人との距離の取り方がよく分からない不安感を垣間見せてくれながら、まだ会って間もない私に心を開いてくれた彼女。目標を定め、諦めなかったその姿にそっと泣きそうになりながら、笑って伝えました。「別々の道だったけど、こうして女子大生になれたね。今は一緒だよ。これからよろしくね!」そう言うとにっこり微笑み、お互いサボる時は代返をお願いする仲に。履歴書に高校卒業は書けなくても、不安と戦いながら大検に合格し、大学卒業は書ける。その履歴書を、立派だと思うのは私だけじゃない。