動きを止めないように

昨日、夕方に息子が宿題を終えた後、壁を見て叫んできました。「カメムシがいる!」なんですと?!と思い、慌てて指さす方を見てみると、ぺたーっと張り付いているカメムシを発見。しかもそれなりのサイズ。ここは落ち着けと自分に言い聞かせ、質問を投げかけてみました。「カメムシって動きは鈍い?」「うん、ゆっくり動くよ。だけど臭い。」虫嫌いな息子、でも男の子なので本から何気に情報を持っていて笑えてきて。そして、椅子を近くまで持って行き、ティッシュで戦闘態勢に入ろうとすると伝えてきました。「ママ、勇気あるね!ぬいぐるみの下には落とさないで頑張って。」「お母さんね、それなりに一人暮らしが長かったから、自分で捕まえるしかなかったんだよ。キャーとか言っても誰も助けてはくれないし。」その説明をしながら、タイミングを見てあっさり捕まえると、ママすげーという感嘆の声が。そういえば前のマンションでヤモリも出て大騒動だったね!とわいわい。息子のポケットの中は、寂しさよりも楽しさが多いだろうか。屈託のない笑顔が、今日もプチハピを運んでくれる。そんな日々の積み重ね。

この際なので、もう一度徹底的に考えてみようと思い、いろんな角度から掘り下げてみました。深く入り込んで滅入ってしまってもいけないと思い、とりあえずスマホを持ってスタバへ。母のパーソナリティ障害(人格障害)はいつ発症した?とあれこれ思考を巡らせていると、辿り着いた一つの仮説。戦後無事に帰還することができた祖父は、体が弱く姉妹の中で最後まで独身だった祖母と親戚の勧めで結婚。その後、男の子を授かったものの、一週間という短い一生を終えた我が子を祖父母はどんな気持ちで見送ったか、それはもう想像を超えるようなもので。そして、その後に生まれた母は祖父の敷いたレールの上を歩むことに。警察官だった祖父は、何かがきっかけで急に辞めてしまい、そこから荒れたのだそう。家財道具も質屋に売ってしまい、そのお金でパチンコをしていました。それでも、何にもない家で、祖母は母の服を縫い、その手作りのお洋服がとても嬉しかったと以前話してくれたことがありました。母は、愛情に枯渇していた訳ではなかったのではないか、祖母の無償の愛は受け取っていたはず。その後、その状況を見かねた祖母の親戚が工面してくれて、土地を買い、家を建てて祖父は会社員になり、落ち着いてくれました。それでも、母に対しては厳しく、養子に来てもらうという未来は決められていて。私立の女子高に通い、銀行員になった母はそこで父と出会うことになり、姉をお腹に授かりました。結婚が決まり、あっという間に同居、そんな中で父の浮気が発覚。一気にいろんなことがあり、妊娠でホルモンバランスも崩れていた母は、その浮気が発端でパーソナリティ障害を発症したのではないか、冷静に考えてみてそこが大きなポイントだった気がしました。それでも、祖母の存在は大きく、乳がんの闘病中でもおばあちゃんの包容力は母の支えだったはず、亡くなったことで今度は私に支えを求めたのかもしれないなと思いました。訳が分からないことなんて数知れず、そんな中でもほんのわずかでもこちらの言葉が届く瞬間があった、それは祖母の愛を覚えている貴重な一滴でもあったのではないか。そんな母の心が、愛情を求めている人に刀を振ってしまうのではなく、安らいでくれるにはどうしたらいいのだろうとずっと考えています。

私が幼少の頃、おじいちゃんが、何が気に入らなかったのかガラスの灰皿を投げてしまったことがあり、びっくりして固まっていると、退院していたおばあちゃんが何も言わず黙って飛び散ったタバコやかすを片付け始め、その姿を見て祖母のすごさを感じました。こんなこと、一度や二度じゃない、そんな祖父をこうやってずっと支えてきた人なんだろうなと。おじいちゃんの気性の荒さよりも、おばあちゃんの人としての大きさの方が印象強く、その出来事は私の中でなぜか負のイメージはなく祖母を深く知る上で大事な時間になりました。父がパチンコへ出かける時も、「おじいちゃんには喫茶店に行ったと言っておいて。」と私にお願いしてきた母。そこには怯えた気持ちが読み取れて。そして、随分時が過ぎ、祖父に介護が必要になると、立場は逆転し、母の方が強くなってしまって。そこに恨みのような感情が入り混じっているようで、私が側にいないとまずいなと思いました。この父親の子でなければ、もっと幸せな人生を歩めたのに。母から漂う悔しさ、無念さ、それでも祖父のことを思う母もちゃんといて。二人の喧嘩はよくあり、こちらに当たり散らかしてくるから本当に大変で、ひと言だけこの場で言わせてもらえるなら、よく頑張った!その後、アメリカ育ちの彼と出会い、横浜に来ないかと言われました。司書の資格も取れたし、勇気を出して家を出よう、そう決めた時母の自殺未遂が発覚。あなたがいないと生きていけないと両腕を掴まれた時の気持ちは、今でもうまく説明ができません。悲しかったし、情けなかったし、好きな人のそばにいたいと思うことさえ、自分には許されないのかと、そして、そんな母を置いてはいけない。驚く程冷静に、こちらの状況をやんわり彼に伝え、母の精神状態が良くないから落ち着くまでは行けなくてごめんねと伝えると、よく分かってくれました。彼のお父さんは精神科医、いろんな患者さんやご家族と接している父親を見てきた彼は、引いてしまう訳でもなく、いつもと同じ位置にいてくれて、その優しさに救われました。落ち着くまでそばにいてあげて、そんなお母さんの子供だと思うんじゃなくて、そういった環境で育ったSだからなんでもないことを幸せだと感じてくれるんだろ、人の辛さ分かるんだろ。彼にはありがとうと言い続けたいです。

さてさて、父が退院して落ち着いたら、どうやってぶっ飛ばしに行こうか。元凶を作ったのはあんたじゃ!!って雪を丸めた中に石ころでも詰めておこうか。そんな子供じみたことが逆に効いたりして。息子には関係ない、これは私の課題。もし父の浮気で、二人目を望まなかったら私は生まれていなかった。母は言ってくれました。「私がお兄ちゃんを亡くしてひとりっ子だったから、きょうだいを作ってあげたかった。Sを妊娠中、自転車で転んで出血してしまって本当に生まれてくるまで気が気じゃなかったけど、出てきた時、丸顔で本当に可愛らしい子で、お母さんの心配吹き飛んだの。看護士さん達が抱っこしたいって列ができてね。この子は、沢山の人に愛されていく子なんだって思った。」この世に生を受けたのは母の気持ちひとつだった、さあ、父の力を借りながら宿題に取り掛かろうか。お父さんが愛情を注げば、お母さんは穏やかになるよ、気まぐれではなく安心できる注ぎ方をしてあげて。きっと答えは私が持っている。