違う道へ

まだ春休み中、新宿の主治医の所へ通院が待っていたので、昼前に家を出ました。すると、事故の影響で電車が途中までしか行かないことが分かり、慌てて別の行き方を模索。その日も、病院から電話があり、主治医の予約時間を早めてほしいと言われ変更をしていたので、先生が何かと忙しいことが分かっていて慌てました。遠回りをしたら間に合わない?でも、それしか手段がないんだよなと思い、いつもと違う電車に乗ることに。すると、予約時間を過ぎてようやく新宿駅に着き、急ごうとしたものの、見慣れない景色に若干混乱してしまって。出口を間違えたら、時間のロスだなとあれこれ考えていると、甲州街道の文字が。聞いたことあるな、ここにしようと駅員さんに切符を渡し出てみると、目の前にはルミネ!見慣れた南口、知ってる!と歓喜し、猛ダッシュで病院へ向かいました。息を切らしながら受付を済ませると、まだ待っていた患者さんがいて、ほっ。先生を待たせなくて良かったと、本気で安堵しました。そして、呼ばれることに。こちら側にどんなことが起こっていても、診察室に入ると先生の波はいつも穏やかでなんだかぐっときて。いつものように様子を聞かれたので、婦人科系で異常があり病院へ行ってきた話をすると、先生の表情が一瞬強張りました。その顔を見た時、主治医は卵巣腫瘍を自分が見逃したのだと今でも気にしてくれているのではないかと感じ、胸がいっぱいに。先生、あの頃はコロナ禍で触診はなかった時ですよ、不正出血もストレスだと思い込もうとしていたのは私の責任、だからどうか気にしないでくださいね、逆にその後気づいてくれてありがとう。「婦人科で治療してもらったので大丈夫です。」そう伝え詳細を話すと安心し、次の予約を取ることに。「次回の予約予定日は、大学で講義をすることになっていて、1週間前倒しでごめんね。」いえいえいいんですけど、その講義受けたいです!と思いながら、今日は忙しいのが分かっていたのでこちらのあほな話に付き合ってもらうのはやめました。先生はどこにいても人望がある、それが嬉しくて。大学のキャンパスをまた歩きたい、何も背負わず。その時まで私も頑張ろう、そう願い笑って閉めた診察室のドア。今日は、主治医の白衣ではなく、緑のキャンパスの匂いがしたよ。いつかその下を歩くんだ。

その後、メッセージで息子が友達と遊びに行ってくれたのが分かったので、短時間だけカフェに入りました。すると、少し心に余裕ができたのか、途轍もなく苦しかった時のことが蘇ってきて。それは、少し前にも触れた実家での家族会議のことでした。姉が大阪に行った後、父は銀行でリストラの危機が迫り、家庭内は荒んでいて。ネネちゃんが帰省した時、これはもうきちんと家族で話し合った方がいいと思い、私が集合をかけました。自宅のコップが相変わらず茶渋だらけだったので、まずは漂白し、気まずくなった時に少しでもほっとできればいいと思い、4人分の紅茶を淹れ、応接間にみんなを促すことに。そして、席はこちらが決めました。それがとても重要であると思ったから。父の隣には姉が座り、その正面には母が座り、父の目の前には私が座り、両親は対角線上に。すると母が、お金や仕事に関することだったかいきなり父を激怒させ、テーブルの真ん中にあった大きなガラスの灰皿を母に向かって投げようとし、青ざめながら下を向いて呟きました。「今、灰皿を投げてしまうところだった。」と。父の怒りのその下にあったのは間違いなく悲しみで、母もまた青ざめ恐怖に震え、ぎりぎりの所で最悪の事態は回避でき、この席順で良かったと震えそうになる自分を抑え、彼らに向き合いました。父の正面には私がいた、それが視界に入ったのではないかと。もし、本当に母にぶつけていても、それなりに反射神経のいい私は母を守り、自分の頭に当たっていたかもしれない、そうなっていたらみんながもっと傷ついていた。なんとか父は冷静さを取り戻し、また改めて私と二人で話すことにもなり、その場はとりあえず解散しました。
翌日、私と二人きりになった母は、泣き叫び、「裏切り者!」と罵声を浴びせてきて。長く続く辛い時間でした。お母さん、あのね、お父さんの本当の苦しさのそばにいること、それがお母さんを守ることにも繋がるんだ、そうじゃなきゃお父さん本当に灰皿を投げていたよ。私は二人を守りたかったんだ。言葉にしたところでもっと罵られるのが分かっていたので、ただじっと彼女の気持ちが落ち着くまで近くにいました。あの時、自分のプライドは、先へ進むためには邪魔になるだけなのかなと、そんなことも思っていた気がします。あまりにも苦しい時間だったから、封印しました。母と勇気を出して距離を取った8年前、気持ちの整理をしようと臨床心理士の先生にゆっくり過去の話をすることに。その時、この話をしませんでした。できなかったんじゃなくて、本当に思い出せなくて。それぐらい、深く深く閉じ込めていたのだと。誰かを嫌いになるということではなく、きっと私の中で怖いという気持ちは人一倍強くて、両親のあの時の負の感情をもろに受けてしまったことが、大きなきっかけだったのかもしれません。そして、忘れてはいけないのが姉のこと。どろどろすぎる我が家の現実を目の当たりにしたネネちゃんは、どんな思いで近鉄電車に揺られ、大阪へと帰っていったのだろうと。溢れる涙は止まらず、いろんなことを振り切ろうと難波の駅で顔を上げようとした、そんな彼女に口が裂けてもこちらの心境は話せないなと思いました。オーストラリアに短期留学した時、もう二度と日本に帰ってこなくていいと言ってくれたネネちゃんの気持ち、今ならはっきり分かる。Sちんの人生なんだよ、親の顔色を見なくていい場所でお腹いっぱい笑いな。姉の中にもあの日のことがあったからこそ。

急に店内のBGMが耳に入り、45歳の自分が戻ってきました。もう25年も前のこと。ようやく本当の自分と向き合えたねと、小さく微笑んでみる。ひとつ息を吐き、お店を出ました。まだどんよりとした曇り空、電車に揺られ、行きとは違う景色を眺めることに。「Sは喜怒哀楽の怒りの感情をあまり出さないのに、哀しみの感情が深い。ちょっとバランス悪くないか?」そんな鋭いことを15歳の時に言ってきたマブダチK君。そして、何年も友達をやっている中で伝えてきました。「Sの悩みが深ければ深い程、助けられる人がいるぞ。お前だから伝えられることがある。そのひと言に誰かが救われるんだよ。」どんな時も肯定してくれたK君、やれるだけやってみるよ。ペンネームだから話せる今がある、その場所を大切にしよう。