全てを糧にする

毎日のようにエンジェルスの大谷選手の試合が放送され、週末は息子と観るように。すると、イタリア代表フレッチャー選手、メキシコ代表サンドバル投手、アメリカ代表トラウト選手を彼が覚えていて驚きました。「どれもいい試合だったね。毎年WBCがあったらいいのにね。」「それは本当にそうなのだけど、選手達のかかる重圧は相当なものだったから、間を空けてまた世界と戦ってほしいね。それまでペナントレースもメジャーリーグも応援しよう!」そう言って朝からわいわい。そして、『侍ジャパンWBC世界一の熱狂』(テレビ朝日系)を観るとまた感動が波のように蘇ってきました。その中で、気になった一人の選手の話を栗山監督がしてくれて。それは、裏側で自分と戦った牧原選手(ソフトバンク)でした。

追加召集され、侍ジャパンに合流した牧原選手。準決勝のメキシコ戦で、5対4の劣勢の9回裏、大谷選手がノーアウトでツーベースヒットを放ち絶好のチャンスを作ってくれました。その後、吉田選手(レッドソックス)が繋げる為にフォアボールを選んでくれて、一塁へ。その裏側で、牧原選手が白石コーチからピンチバンターを指示されていました。ピンチヒッターは代打という意味だと知っていました。でも、ピンチバンターという言葉をこの大会で初めて知りました。代打で出て、犠牲バントを打つということ。大事な場面でそれを言われた牧原選手が極限状態の緊張の中にいたことが分かり、その気持ちは計り知れないものだと思いました。その表情を見た白石コーチ、そして小さな異変を感じた栗山監督が状況を理解し、村上選手に託すことを決めてくれて。栗山監督の信じるその気持ちが、村上選手に届き、熱くなった胸でサヨナラタイムリーを放ち、劇的勝利が待っていました。翌日の決勝戦でも熱戦は続き、日本が優勝トロフィーを手にすることに。そんな感動の中で、試合後に栗山監督が牧原選手に歩み寄り、心を届けている場面を目にしました。その時は、スタメンになかなか入れなかったことだったのかなと思っていたものの、こうして時が経ち、ピンチバンターとしてとんでもないプレッシャーをかけた話だったのではないかと思えて。その後の会見で、牧原選手が伝えてくれました。「すごい選手が集まった中で、スタートからは試合に出ることはなかったけど、守備について優勝を迎えられたのはいい経験になった。」そう話してくれた時、栗山監督が後ろを振り返りながら、ほっとひとつ安堵されたのが分かり、牧原選手の心のそばにずっといたのだと思うと堪らない気持ちになりました。サヨナラ勝ちの裏側にあった牧原選手の苦悩、そして監督、コーチの想い、忘れないでいようと思います。
そんな牧原選手が何気なくテレビを点けていたら出演されていて、興味深いデータがあることを発見。それは、ナイトゲームよりもデーゲームの方が、打率が他の選手よりも高いというものでした。本人も驚き、そして伝えてくれて。もしかしたら二軍生活が長かったから、そのリズムに慣れているのかもしれないですねと。自分の強みを知り、存分に活かしていく、大舞台のベンチ裏で自分と戦った牧原選手の今後も応援していきたいです。

リズムと言えば、関空で働いていた姉も生活に慣れることを頑張っていました。早番、遅番、超早もあったと。電車が動いていない時間に出勤もあったから、その時はタクシーの中でメイクをしていた、冬は寒いし暗いし眠いしで大変な時もあるけど、空港に着いたらスイッチが入ったと話してくれました。「遅番の翌日に早番という日は大変じゃない?寝る時間もバラバラだよね。」「もう気合いで乗り切ってる。若いから何とかなっている部分もあるかもしれないね。」グラウンドスタッフだったネネちゃん。CAを目指していた姉は、妹にさえ簡単に弱音を吐くことなく、常に空を見上げていました。ゴーッという飛行機の音。機内にはその国の匂いがする、そんな話をしてくれたことも。休みの日は、ゆっくり体を休めたかったはず。それでも、スーツを着て面接に行っていたことを知っていました。お姉ちゃんの夢、叶うといいね。いつも願っていた名古屋の地。それでも、なかなか結果は出ず、朝早くに起きて関空に向かっていたネネちゃん。超多忙なのに、FAXで送られてきた妹の英語の宿題にまで付き合ってくれて、やっぱりいつもそばにいてくれたのだと思いました。「ちょっと~!へとへとで帰ってきたら、Sからの宿題が流れてきていたんだよ。“私はリーダーの宿題をやっているから、お姉ちゃんはグラマーよろしく”って。勝手に分担されているし!!」と半分怒りながらも、ちゃっかり甘える妹に笑って、どんな時も宿題の穴を埋めてくれました。「私にとって、家族はSだけ。」大阪の地で、そんな言葉を伝えてくれたネネちゃん。その意味が、今になってより深く染みてきて。「一人で歩むって大変、実家を出て精神的に少しは楽になったかもしれないけど、私には帰る家がない。甘えられる親でもない。それを思うと途轍もなく悲しくなる時がある。でも、Sのことを思うと、ちょっと元気出るの。私には妹がいるって。」そんな言葉をかけてくれたことを思い出しました。女子寮の、絨毯の匂いまで思い出す。ネネちゃんの勇気ある翼、私が覚えておくよ。英語の宿題は提出したけど、道徳の宿題が私にはまだ残っているのかな。これにはゆっくり時間をかけたい。どう解決するかは、自分で決める。

息子をお迎えに行った日、良く晴れた空の下で50m程先にある信号機が青になっているのを見て、伝えてきました。「あの信号渡っちゃう?」「急いでいくと危ないからゆっくり行こうよ。」と私。「でも、周東くん(ソフトバンク)なら間に合うよ!」そう言われ、大爆笑。準決勝、一塁で代走になり、最後はサヨナラのランナーで、とんでもないスピードでホームに帰ってきてくれました。その光景が息子は忘れられず、事あるごとに、周東くんならできる!と言うように。まだ野球チームの練習に参加していた幼少の頃。逆回転!と監督が言うと、ホームから三塁、二塁、一塁とベースランニングを最後に行っていました。まだよく分からなかった息子は、三塁を踏むとそのままレフトの方向へ一直線。みんなが笑い、お兄ちゃん達が息子を呼び戻してくれて。そんな時間が過ぎ、周東選手が世界を魅了するベースランニングでホームに帰還。全てのことが、息子と私の中に宝石となって残ってくれたよう。生きていたら、黒い石も中にはあるかもしれない、でもキラキラを自分の手で取り出したいなと思いました。未来、どれだけの傷が磨かれ、どんな色に光っているだろう。