名古屋二日目の朝、両親と別の部屋で、息子は私と慌ただしく身支度。これは場所が変わっても変わらない。8時にホテルを出て、父が行きつけだった喫茶店へ向かいました。メニューを見て仰天!「これ、全部330円なの?!」ホットドッグやサンドイッチなど種類も多く、店主の手作りで、紅茶を頼んだら気合いの入ったホットドッグとゆで卵とバナナが半分ついてきました。お店を見渡すと、ご年配の方でごった返し、テーブルはゲームのできる席もあり、雑誌や新聞の種類も多く、昭和を思わせるお店の雰囲気に嬉しくなって。一人暮らしの父を支えた癒しの空間だったのね。
その後、実家があった木造戸建て周辺をドライブ、まだ売っていない駐車場の跡地を見たら、祖父を思い出しました。そこにあった柿の木、祖父が作っていたきゅうり、まだ私が小さい時は土いじりをしたらミミズが出てきて大泣きした孫を抱いて、笑いながら母の所まで連れて行ってくれたおじいちゃん。色々な思い出がとても自然に蘇ってきました。もし、両親が実家にいたら、私は別居後、息子を連れて名古屋に帰っていただろうか。そんなことを思っていると、「この家古い~。」という息子のひと言でかき消されました。イメージが湧かない、ということは私が両親を関東に呼び寄せたことはもう流れに乗っていたんだろうな。もし、両親が来ていなくても私は息子を連れて帰っていなかった。なぜなら、彼のホームグラウンドを変えたくなかったから。やれるだけやってみよう、きっとそう思っていたのではないかとひとつの答えが見つかりました。そして、近くにあるお墓へ。祖父母と、母の兄が眠る場所で手を合わせました。なかなか来られなくてごめんね、息子を連れて帰ってきたよ。おじいちゃん、もうすぐ関東に呼び寄せるからね、お姉ちゃんとお墓の場所を考えているんだ。もうちょっとしたら旧姓に戻るよ、帰ってくるよ。きっと祖父に届いているに違いない。息子が手を合わせる姿も見えているよね。
大きな役目を果たし、ほっとしながら中村公園駅まで父に送ってもらいました。地下鉄一日乗車券を買って、いざ東山動物園へ。前に行ったのは確か、小学生が最後。岐阜の小学校時代、遠足で出向いた思い出を大切にしていました。先生達が先に下見に行き、電車の乗り換えを間違えないように写真を撮って、スライドで見せてくれた授業。恥ずかしさを隠し、掲示版を大きく指さした若い女の先生を、担任の男の先生が撮ってくれていて、通りゆく人達が全員見て行くから本気で恥ずかしかった!とみんなに話してくれて大爆笑。レクチャーから遠足は始まっていて、そんな高揚感が嬉しかったな。当日は、誰かの腕時計がカメさんの所で落ちた!と女の子が泣きながら先生に伝えひと騒動。「カメさんが時計を食べて死んじゃったらどうしよう~。」とオロオロする女の子の姿や飼育員さんに向かって全力疾走の男の先生の表情までもが蘇り、胸がいっぱいになりました。みんなの一員でいさせてくれた担任の先生、どうしているだろうか。
そんな感慨にふける間もなく、息子は自前のiPadを持って、全部の動物を撮る!と張り切っていて。途中で遊園地も見つけてしまい、まさかのジェットコースターが待っていました。薬物療法の合間とはいえ、お母さんこんなところで罰ゲーム?と思いながら息子と乗車。子供向けだったので、ちょうどいい迫力でそこからナゴヤドームが見え、感無量でした。見える景色全てが私の青春なんだな。せっかくなのでタワーにも上り、大学4年の車通学を思い出し、頭が三角形なのでえんぴつタワーと勝手に呼んでいました。大学生の私へ、あなたは男の子を授かるよ。42歳になって、その子とタワーに上れる日までがんばれ。きっと素敵な景色だから。そして、そこからまた未来を見るんだ。拡張された動物園は思ったよりも広く、疲弊しながら本当に全種類の写真を撮り、ゆきひょうのぬいぐるみを買ってまた中村公園まで地下鉄で戻りました。父の部下であった銀行員時代の後輩が開いた居酒屋でご飯を食べ、また名古屋駅に戻り、息子と寛ぎ、最終日の朝を迎えました。
荷物と息子をお願いし、私は一人部屋に戻り、マブダチK君の連絡を待つ。色んな思いがこみ上げ、彼の電話を取ると懐かしい声が聞こえ、それだけで泣きそうでした。ホテルの前まで迎えに来てもらい、運転しているK君を見ると予想通りいい感じのおっさんになっていて。それでも中身は何にも変わっていなくて、ファミレスまで嬉しいドライブが待っていました。最後に会ったのは、ガスト。おばさんにはなるなよ!と言われたのが最後の会話で、お店は違うものの11年ぶりの再会もまたガストでした。対面して、改めてお母さんのことを聞いてみると伝えてくれました。「おかんさ、余命半年とか言われていたのに、抗がん剤が効いたのか今元気なんだよ。」・・・は?「ちょっと待って。K君に数年前、おばさんのことを聞いたら返事がなかったから、悪い知らせだと思い込んでいたよ。どんな言葉をかけようかずっと考えていたの。もう~!返事してよ~。」「わりぃな。おかんさ、抗がん剤の影響でウィッグは付けているし、辛そうな時もあるんだけど、元気な時はテニスしてる。俺の友達のことはすっかり忘れているのに、Sのことだけはしっかり覚えていてさ。たまに聞かれるんだよ。」「本当に良かった~。おばさんにどれだけ可愛がってもらったか分からないよ。K君の親子ってさ、『鬼滅の刃』の炭治郎親子みたいだなって思ったの。」「ああ、最近上司にも言われた。それよりもS、なんで事後報告なんだよ!退院してから連絡あって、なんでそのタイミングなんだよ、相変わらずだなって思ったんだよ。でもそれは俺の目線だなって思った。そのタイミングだったのはSが沢山考えた末のことだったんだろうなって。」「うん、ごめんね。命に関わる手術だったから、いい方向に転がるまでは言えなかった。おばさんのこともあったし。」「どこまでもSらしいな。」そう言われ、夫のことも話すと、彼らしく伝えてくれました。「聞いていてだんだん腹が立ってきた。でもな、どう頑張っても交われないことも分かったし、とにかくお前の体が一番だ。何を差し置いてもお前は自分の体を守れ!いいか、亡くなる順番はおかん、俺、Sだ。これはもう絶対だ。俺より先には逝くな。もしそうなったら本気で起こしに行くからな。俺も、色んなことがあるよ。でも、その度にSも頑張っているんだろうなって思うと頑張れるんだよ。存在だけで何度も助けられた。そんなヤツなんだよ。なんで、俺は高1でSに出会ったんだろうって思った。そんな時に出会えてすげーラッキーだったなって。でも、どの年に出会ったとしても俺はお前をリスペクトしていたと思う。死ぬまでな。それは変わらない。妻と1年恋愛して結婚して、1年じゃそりゃなかなか俺のこと分からないよなって喧嘩する度に思った。Sは、何十年も俺を知ってくれていて、だから同居してもそんなに違いを感じないだろうなって。16の時はまだ子供だった。じゃあ、26の時に出会っていたらどうなっていたんだろうなって。俺、前世でSに出会っていたような気がするんだよ。同じような感じだったかもしれないな。お前は、俺の中で特別だ。それはこの先も変わらない。」一生分の幸せを彼からもらったような、途轍もなく苦しかった時間はこの日の為にあったのではないかと思えるような、目の前に彼がいてくれるその事実が、K君の言葉が震える程堪りませんでした。「ありがとう。K君がいてくれることが、どれだけの支えになったか分からないよ。こうして、11年ぶりに会って、何にも変わっていなくてそこにいてくれてありがとうって思える人に出会えたことは、幸せなことなんだと思う。」「そうだな。」優しい別れまであと数十分。
帰りの車の中で、彼が届けてくれました。「Sは人生観が変わったと言っているけど、俺の中のお前は何にも変わっていないよ。変わったのはきっとほんの一部分で、SがSらしくいてくれることが俺はめちゃくちゃ嬉しい。」「その言葉、そのまま返すよ。K君もね。」
待ち合わせ場所まで送ってもらうと、両親の車が見えて、彼がすぐさま出て母と握手をしご挨拶。そんなK君の変わらない姿に母が半泣きして喜んでくれました。そして、私とハイタッチし、息子ともハイタッチ。「なんで俺、お前の子どもとハイタッチしているんだよ。ははっ。S、事後報告だけはするな。必ず連絡しろ。」そう言って手を挙げ帰っていきました。車内にいた父にも挨拶をしながら。久しぶりに会ったマブダチ、彼との再会はあまりにも大きくて。彼が彼らしくいてくれること、それは私が私らしくいられることと同じなのかもしれない。また笑って会おう、10年後でも20年後でも必ず会いに行く。