やりきった感

少し前、シェアオフィスのラガーマンTさんに帰り際ようやくお会いすることができ、受付で私の顔を見た瞬間、「負けてしまいました~。」と悔しそうに伝えてくれました。その一瞬がね、もうどうしようもなく堪らなくて。受付で毅然と、どんな言葉をかけたらいいのだろう。

花園にTさんがコーチとして向かう前、伝えておきました。「慰める言葉は用意していないので。本当に気を付けて行ってきてくださいね!なかなか練習ができなかった悔しさとか、ぶつけてきてください。本気で応援しています。」「いやいや、どちらの言葉も準備しておいてください。いってきます!」そんなやりとりで笑ってお別れ。試合当日、どうしてもその時間に用事があり、プログラマーのMさんが、テレビの前からメッセージを送ってくれました。『もうすぐキックオフ!』両手を合わせ、いい試合になることを祈りました。そして、実況をしてくれたMさんからの最後のメッセージには、僅差で敗戦とのこと。色んな思いが駆け巡り、外なのに、試合も観ていないのに泣きたくなりました。感無量でした。その後、自宅に帰り、録画をしていた試合を再生すると、そこにはグラウンドに出ようとする選手達を激励しながらハイタッチをして送り出すTさんの姿が。優しい笑顔がそこにはあり、花園で試合ができることってやはり特別なのだと思いました。

その後、混戦模様のプレーの中で、相手の反則で、ペナルティキックのチャンスが。キックティ(ボールを置くお皿のようなもの)を持って、選手に駆け寄る彼がいました。沢山トライを決めてくれると僕の出番があって体が冷えることはないです、なんて笑って話してくれたことが蘇り、何度もこの光景が見たいなと思いながら先制のゴール。それでも、最終的に惜しい所で負けてしまいました。輪になり、悔しさの中で泣く選手達を見て、ぐっとこみ上げるものがありました。戦いの後のこんな姿に、ものすごい勇気や優しさをもらうんだなと。
さて、Tさんに会ったら何から伝えよう、そう思って出向いたシェアオフィス。「負けてしまいました~。」の後に返す言葉はこれしかないでしょ。「お疲れさまでした。いい試合でした。結果よりも、この状況の中で試合をやってくれたということが何より嬉しかったです。」そうしみじみ話すと、感慨深く、一瞬うるっとしたかのような表情で言葉を繋げてくれました。「そうですね。悔し泣きだけじゃなかったんです。やりきったという涙もあって、試合後に激励した時も出し切ったことを伝えてくれた選手達が沢山いました。去年の方が不甲斐ない負け方だったんです。負けても、本人達が出し切ったと思えたことが僕も嬉しかったです。」「それが聞けて、本当に良かったです。ところでTさんが運んでいたお水、重そうに見えたんですけど大丈夫でしたか?」「ああ、いつもなら選手達が回し飲みをしてくれるのでもっと量が少ないんですよ。コロナの影響で一人一本なので、どうしても重くなるんです。ラグビーというスポーツは蜜が避けられない、それでも試行錯誤しながらどのチームも練習していると思います。応援ありがとうございました!」「次はトップリーグですね!」そう言って、気持ちよくお別れ。コーチとして、メンタルも含めて選手達を支え続けたTさんの清々しい顔が忘れられなくて。悔いがない人の姿って美しいなと心から思いました。一人で飲んだお酒は、どんな味がしたのだろう。

彼が所属していた社会人チームの練習試合を観に行ったのが2019年の冬。そして、対談をさせてもらったのは、年末でした。一年に一度くらい、またこうして対談をさせてくださいとお願いすると、「ああ、いつでもいいっすよ!」という体育会系のノリで快諾してくれていました。2020年になり、テレワークが増えたTさんに会う回数が減り、久しぶりに見かけると、そこには凝縮された時間がありました。その会話の中で、大学ラグビーを応援しに行くことになり、心の底から喜んでくれた彼。試合後のグラウンドと観客席で話せたかけがえのない時間があり、その選手達にそっとエールを送り、花園へ。戦いの場から戻ってきた彼の穏やかな表情を見て、一年が終わったのだと思いました。1時間の対談よりも、もっと濃く、深く、心の交流がそこにはあったことを実感しました。外へ外へ出て行くTさん。その背中を見て、どれだけ奮起したことか。「花園いいな。私も現地で応援したいな~。」と受付で言った時、「かなり寒いのでテレビ観戦していてください~。」と笑われてしまいました。大阪はね、司書教諭の資格を取る為に学んだ大学がある場所。そこのキャンパスにも一度でいいから足を踏み入れたいんだな。その時に発行された学生証は、まだお守り代わりにカードケースの中へ。

「Sちゃん、行くところがいっぱいだよ。神戸も大阪も、京都の舞鶴港も。」裏側で煽ってくるMさん。そう、祖父が戦地から戻った舞鶴港の景色をどうしても目に焼き付けておきたい。そうしたら、どんな思いで日本に降り立ったのか、少しでも感じられる気がするから。焼け野原を見ても、日本人で良かったと思ったと伝えてくれた祖父。誇りを胸に戦っていたのだろうと思いました。「おじいちゃん、シベリアの地にいて、もし日本に戻ってくることができたら、一番何がしたかった?」「家族に会いたかった。もう、その気持ちだけだったよ。」最後は気力だけで生き残った祖父、その原動力は家族だったという。そんな祖父が見た日本の景色を私が見たら、祖父に届くような気がしました。戦い抜いた人を感じに行くために、孫の私がやれること。