息子が夏休みに入り、学校のお友達と夜のお祭りに行きたいと言い出したので、学区内ということもあり、お小遣いを渡して見送ることにしました。すると、お財布にまだ残っていた小銭も新たに見つけ、一人で大喜び。「ボクね、フリフリポテトは絶対に買うの!」といつもは昼間に行っていたお祭りに、初めて夜の雰囲気を味わえる高揚感でいっぱいだったよう。日本のこんな文化が、どうかずっとこの先も残っていきますように。お囃子を聞く度に、祖父と二人で行った子供の頃のお祭りが胸を掠めていく。豊かさをいつも微笑んでいたおじいちゃんの表情が、息子の笑顔と重なった。受け継がれていく歴史、やっぱり尊いな。
さてさて、通知表は大体予想通りの結果で、息子ののんびりとしたところを、どう伸ばしていくかなとあれこれ思案。そして、先生のコメント欄に目をやると思わず泣いてしまいました。『何事にも手を抜かず、頑張っているRさんは、周りの皆にも良い影響を与えていました。』成績は思うところがあるのだけど、それはまあ置いておいて、自分の育て方は間違っていないのかなと。お母さんはRの光になりたい、そんな話をしたこともありました。隣の芝生は青く見える時があるかもしれない、でもそれはあくまでもこちらから見えている視点で、上空から見たら実はそうではないかもしれないし、土の下のことは分からない。だったら、自分の芽を育てることに力を注いだ方がきっと自信になるよ、そのお手伝いをお母さんはしたいのだと。二人暮らし、ずっと試行錯誤だしきっとこれからもそうなのだけど、for usがfor youになることもあって、それをもしかしたら学校でも体現してくれているのかなと思うと、嬉しい気持ちになりました。母親としての通知表は、◎〇△ではなく、お花マークだと都合のいい解釈をして、夏休みを気持ちよく過ごすことにしよう。先生、やわらかさをありがとう。
そんなほっとした週末、母が検診費用を郵送で送ってくれました。中身を開けてみると、おまけでお茶代も入っていて。これが、母の根っこにあるものではないかとふっと笑ってしまって。何か一つあるとわーっとなって、感情を爆発させてくるのでその度に大変。それでも、母はお人好しな所もあり、そのおまけのお茶代という彼女の気持ちをずっと守ってきたかったのかなと、そんなことも思いました。お母さんのコップには穴が空いているから、Sちんがどれだけ注いでもすぐに空っぽになっちゃうの、だからその度にSが疲弊するだけ、ネネちゃんは何度もそう言ってくれました。それは多分間違いじゃない、数えきれないぐらい、そういう思いをしてきた。でも、今なら分かる。その母の心のコップには一滴の水が残っていた。その一滴が嬉しかったのだと。自分が日々過ごす心の遊園地には、それはもう本当に色々なことがあって。母が不安になり、一人ではいられないと言う度に、訳が分からなくなっている度に、一緒にジェットコースターに乗り、分かっていても翻弄してしまいました。でも、本当に大切なのは、ジェットコースターの入り口まで共に歩き、母が一人で乗ることを見守ることではないか。そこまで行くことはできる、でも乗るのはお母さんだよ、私は同じ位置で見届けるから。母の勇気を応援し、安心してもらうこと、その重ねた自信が一滴また一滴と残ってくれたらいいなと、そんなことを思いました。私の卵巣がんの疑いが出た時、母は意外と毅然としていて。その理由を辿った時、ひとつの解が見つかりました。祖母は、私が生まれて間もなく、乳がんの闘病生活が始まって。それはもう幼い自分でも分かるぐらい、壮絶なものでした。そんなおばあちゃんが、仮退院で自宅に戻っていた時、実家の前に土の付いたねぎの束が置かれていたので聞いてみました。すると、近所の農作業を手伝ったからきっとそのお礼だと笑ってくれて。一分でも近くにいたくて、いつも祖母のそばにいた時、なかなか見つからなくて玄関前で、「おばあちゃ~ん!」と叫ぶと、すぐ近くでねぎの隙間から農家さんと土の上にどっしり座り、汚れるのもお構いなしで談笑しながら作業をしている祖母がこっちだよ~と声をかけてくれました。祖母にとっての幸せは、こういった時間なんだなと。目に見えるものではなく、誰かの何かになれたらと、そんな小さな幸せがおばあちゃんのポケットには沢山詰まっているんだな、こんな人になりたいと漠然と思いました。友達だった小学校の教頭先生の所へ二人で遊びに行くと、校長室へ招かれ、女性の教頭先生が容体を聞くと、かつらを外し笑った祖母。その時、隣でとても驚いたのだけど、きれいな人だなと思って。祖母の心の美しさに、きっと触れたからだと思います。私が生まれた後に見つかった乳がんにより、祖母は余命半年だと言われていました。それでも、本人の強い気持ちと、母の介護により、8年間生きてくれました。その間に、私が感じ、受け取ったものは途轍もなく大きくて、だから母への感謝が常にあるのだろう、そして、その闘病生活を支えたという経験が、母を少しだけ強くしてくれたのかなと改めて感じています。
祖母の親類に会う度、おばあちゃんに似ていると言われました。そのことは私の誇りで。両親のだめさを目の当たりにしても、ぎりぎりのところで自分を保てていられたのは、隔世遺伝したのかもしれないと、それが小さな希望にもなっていたからなのかも。祖母との記憶は、なぜか夏だけ抜けていて。いつかどこかで二人で過ごした夏の匂いを感じた時、おばあちゃんの魂に触れられるような気がしています。卵巣がんの可能性が出た時、息子のことを思いました。絶対に逝く訳にはいかないと。そして、祖母の強さとどんな時も人を想う気持ちを感じました。自分の胸に手を当て、41年間歩いてきた道のりを辿りました。密の濃い、いい人生だったなと。それを思った時、涙が溢れました。どの年齢を輪切りにしても、今を生き、誰かの優しさに触れて来ていたんだなと。手術から目が覚め、良性だったと安堵してくれた執刀医の言葉から、また新しい感謝の旅が始まっていたのかもしれません。この瞬間を力に変えて。今日もひとつ笑えたなら、特大の花丸をご自身へ向けてください。