片道切符

宿題の時間になるとぐずり出すことが多くなる息子。算数の問題が理解できない上に、空気の変わる夕方に頭痛が悪化するので、そのイライラをぶつけられ、宥めながらもこっちも痛いんじゃ!と思い、軽いバトルが待っていました。いつものことと言えばいつものこと。この状況で問題の説明をしたところで頭に入っていく訳がないと判断し、お風呂を促しました。「気圧の影響だけでなく、冷えからも来ている頭の痛さだと思うんだよ。湯船に浸かってきたら落ち着くからゆっくり入ってきてから続きをやろう。」「え~。宿題やっちゃいたい。」とまだぐずぐず。それでもなんとか丸め込み、お風呂に行かせると、すっきりした表情で出てきてくれてほっとしました。足を温めることで自律神経も整っていくだろう、そして時間を空けることでお互いが冷静になれる。その後は、あっさり問題を理解し、サクサク宿題は終わりました。負の感情を爆発させるのは私の前だけ。いつまでも受け皿になる訳にはいかないだろう。どこで突き放す?それを思った時、面白い展開が頭を過りました。いつかオーストラリアの短期留学をさせた時、片道切符だけを渡そう。帰りの航空運賃は、現地でバイトして帰ってこい!!ワーキングホリデーだ、ワーホリ♪と考えていたら楽しくなってしまい、息子突き放し計画は着々と進めることにします。お小遣いは、その時のレートでオーストラリアドルを渡すのもありかもしれない。「え?日本円じゃないの?!」という彼のリアクションを思い浮かべると笑ってしまい、あほな想像をしていたら頭痛の辛さも幾分和らいでいったようでした。本当にやってのけたら、現地から息子にレポートを送ってもらうことにしよう。

寝る時に絶対に必要なものは耳栓。ちょっとした音で起きてしまうので、いつも着用していました。それでも、まだ実家にいた頃には身に着けていなくて、深夜になると1階から聞こえてくる和室のテレビの音で起きてしまうこともしばしば。寝ぼけながら階下に下りて行き、「おじいちゃん、音量下げて。」と伝えようとすると、戦争のビデオを見て何とも言えない切ない表情をしているので、何も言えなくなりました。その時テレビから流れていた独特のナレーションと白黒の映像は、私の脳裏に焼き付いていて、この先も消えることはないだろうと思っています。シベリア抑留から生還した祖父、その後に知った広島と長崎の原爆投下。おじいちゃんが感じた胸の痛みはいつも現在進行形でした。眠れなくなった深夜にふとナレーションが流れ、孫の私はその背中をどんな時も忘れないでいようと思います。そんな祖父は、銀行員である父を養子にもらうことを誇りに思っていました。そう言えば、結婚式の披露宴で『燃えよドラゴンズ!』を熱唱した父。その時、確実に祖父も出席していただろうに、よく歌ったなと今さらどうでもいいことを思い出して。そして、母のお腹の中にはすでに姉もいて、あれは胎教に良かったのか?!とどうでもいいついでに考えてみました。ネネちゃんに聞いたところで、「そんなの覚えてないわ!!」と返ってくるのは分かっていて、我が家の歴史って濃い~なと今になって笑えてきました。どこかに笑いがあったから、妹が生まれたんだよね。

その後、父は実家を出て、厳しい銀行員時代終盤を過ごし、出向。それが片道切符なことを知っていました。もう銀行には戻れない。父の気持ちを思うといろんな気持ちがこみ上げたものの、本人はどこかでほっとしていたよう。話を聞くと、関連会社で、銀行の裏側の仕事をすることが分かり、会社員になったものの結局金融の職場なのだと嬉しくなりました。そして、関東から実家に帰省すると祖父が聞いてくれて。「Sちゃん、お父さん今どんな仕事をしているんだ?」と。「銀行の書類を扱う仕事に就いているよ。名刺をもらったの。銀行にいた時より、丸くなってた。内面も体も。張り詰めていたものが緩んだのかもしれないね。銀行員ではなくなったけど、その延長上にいて65歳まで全うするのだと思う。」そう話すと、くしゃっと嬉しそうに笑ってくれました。まだ19歳の若かった父、頑固な祖父と対面し、養子に入ってくれました。まともな会話もなく、家長は祖父の方で、気の短い父はぶっきらぼうにパチンコ三昧。それでも、ビシッとスーツを着て出勤していく父の姿は、いつも祖父の中で誇らしい婿でした。言葉で表現することはなかった、それでも私にはそう感じていて。50歳で退職した銀行からお祝いにもらったカタログギフト。母が、一人暮らしの私に必要なものはないかと聞いてくれたので、HOYAの大きな花瓶を選ぶとびっくりされました。邪魔じゃないの?と。もうね、こっちは本当に大変な思いをしたんだよ。お父さんとおじいちゃんはまともに口を利かないからその間に入ってすり減るし、お母さんに当たり散らかされるし、お姉ちゃんが大阪に行って、お父さんまで出て、この状態をなんとか打開しようと必死だった。そんな銀行員時代のお父さんの思いを、我が家の歴史を忘れない為にも形のあるものを選んだんだ。その花瓶は、前のマンションから絶対に割るものかとタオルでぐるぐる巻きに包んで、息子との新しい暮らしの出窓に置かれた。沢山の自然光に照らされ、それはもうキラキラしていて、ここまで来たんだと思わせてくれた大切な宝物になった。祖父が父に注いだ愛、分かりづらかったかもしれないけど、本人に届いていたらいいなと花瓶を見て改めて思いました。

「お父さんが家を出てから、おじいちゃんずっとお父さんの体のことを心配していたんだよ。女の人がいるなら、ご飯でも作ってもらっていたらいいなって。一週間で亡くなったお母さんのお兄ちゃんのことをいつも思いながら、お父さんをどこかで本当の息子のように思っていたんだよ。そんなおじいちゃんの気持ち、忘れないで。」祖父の葬儀から少し経った家族会議で、泣きながら父に話すと俯きそっと聞いていました。翌日私が帰ると、父は一人で仏壇の前に座り、長い時間手を合わせていたと姉がこっそり教えてくれて。「Sちんの気持ち、おじいちゃんの気持ち、お父さんに伝わったと思う。なかなかいい時間だったよ。」そう話してくれたネネちゃんの声も優しくて。「お父さんもお母さんも娘にこんなに愛されて、なんて幸せな人達なんだと思う。S、もう自分の道を行きなさい。」そうか、あの時ネネちゃんも私に帰りの切符を渡さなかった。前に進め、もう振り向かなくていいから。今になって、その言葉の深い意味を知る。