今日は少し体が軽いなと思い、久しぶりにドトールへ。すると、BGMに乗ってゆっくり思考が動き出し、ひとつの気づきがあって。うちの両親、私が左利きであることを知らない?!いやいやちょっと待てよ、少なくとも母は知っていたはずと昔の記憶を辿ってみることにしました。確か、左利きに気づいてくれたのは幼稚園の先生。そして、母に伝えてくれました。箸と鉛筆だけでも右利きに矯正した方が困らないだろうと。だから母は知っていて、それでも日常の中で食事は右手を使うようになっていたので、彼女はすっかり忘れてしまいました。一緒にお料理をした時、左手で包丁を使うと、教えづらいとか、不器用そうに見えるとか、よくそんなで包丁が使えるわねとか、随分否定の言葉を並べてくれたなと今さら笑えてきて。父に関しては、左手でボールを投げていたのは見ていたはずなのだけど、気づいていなかったんじゃ??論外だなとやっぱり笑ってしまうことにしよう。
漢方内科の主治医が、私の隠れ左利きに気づいてくれたのは最近の話。小さい間に矯正が入ると混乱が生じることもあると、こちらの困難さを心配してくれました。色々思い返して、母の言葉が再生されて。「Sは本当に大人しくて、こんなに大人しくて大丈夫かなとおばあちゃんと心配する程だったの。だから、言葉を話すのも他の子より遅れていたのよ。」脳の中で大混乱だったからじゃ!!とあの時の母に言ってやりたい。20代の頃通っていた英会話教室で、先生が伝えてくれたことがありました。リスニングが先、インプットをして初めてアウトプットができるのだと。ということは、きっと幼少期の私は、混乱の中でも日本語という膨大なデータを蓄積しようとしていたのかもしれないなと。その中で、人の表情や抑揚、テンポや行間から、沢山の感情を読み取ろうとしていた気がします。パッヘルベルの『カノン』、その曲を聴く度にちょっと淡く切ない気持ちになり、そこに何かが隠されているような気がするのだけど思い出せなくて。それが最後の解でもなんでもなくて、ほんの小さな1ページだったとしたら、それはそれで幸せなことなのかもしれません。生きている間に辿り着けたなら。
石川県の和倉温泉。能登の震災が起きた時、大学4年の終わりがけに友達と旅に出た日のことが蘇ってきました。老舗の旅館で、本館も別館もあり、広いお風呂とおかみさん達のおもてなしに癒されて。その前後に、何か嫌なことでもあったのか、その旅行の記憶がごっそり抜け落ちていて、震災の映像を見てその場所に行った時のことが一気に思い出されました。本当にいろんな人に助けられた大学4年間でした。よく泣いたし、その後に笑いました。訳の分からないことなんて数知れず、それでも周りにいてくれた人達に励まされ続け、ようやく卒業が近くなった時、和倉温泉へ。風情のある街の雰囲気を見た後、温泉に浸かると芯からほっとできたような優しい気持ちになりました。その街が、大変なことになっていると分かり、全然思考が追い付かなくて。時が止まってしまったという能登の方達の気持ちは、計り知れないだろうと。石川県からの複数のアクセスが多数ありました。何にもできないけど、ここにいますということと、和倉温泉の和やかな雰囲気にきっと今でも包まれていますということと、笑える日が一日でも早く来ますようにと祈っています。そして、いつかまた和倉温泉へ、その日まで私も頑張ります。
最近、食器を洗っていたら手が滑って大事な器に小さなひびが入ってしまいました。本気でショックを受けていると、息子が異変に気づき伝えてくれて。「ママ、そんな小さなひびだったらまだ使えるよ。まだ使おうよ。」と。普段はわがままなのに、こんな時はなんだか沁みました。その器は、私がまだ20代の頃に母が買ってくれたたち吉の食器でした。重厚感があり、みそ汁など多めに飲みたい時はその大きな器で飲んでいて。手が滑り、一人暮らしの自宅で汁ごとこぼしてしまったこともあり、そんな思い出が沢山詰まった大事な食器でした。もう20年も一緒にいてくれたのかと思うと、母に話したらそんなに長く使ってくれていたの?!ときっと笑ってくれるだろうけど、買ってくれた器には彼女の気持ちも入っていて、本当にもう色々あったけど、今もあるけど、母へありがとうと思いました。一人暮らしの食器棚に、妙に存在感があったんだよなと。インテリアとして取っておく?いつか、輪島塗の食器と差し替えるその日まで。
岐阜の小学校にいた時、カルタを先生が作ってくれて、47都道府県の名産物などを各地域ごとにに三つ書いたカルタを並べ、先生が読み上げて、児童達はグループ学習の席にし、みんなが戦闘態勢に。「輪島塗~。」「はいっ!!!」と石川県のカルタを張り切って取った小学生の私。その時から、石川県と言えば輪島塗でした。そんな日本の大切な伝統文化が、どうか途切れませんように。