卵巣の摘出をした3年前、執刀医の産婦人科部長が退院前に説明をしてくれた時のことを思い出しました。「卵巣を2つとも摘出していた場合、女性ホルモンが出なくなって寝込んでしまうこともあるんだよ。」と。そんなことにまでなってしまう?!と半信半疑だったものの、実際残してもらった右半分の卵巣も機能しなくなった今、許されることなら一週間寝込みたいと半分本気で思うように。なんて言うのかな、ぜんまい仕掛けで自分の体が動いている感じ。頑張ってねじを回すのだけど、あっさり止まってしまってまたなんとか回す毎日。それでも、元気だよ~と伝えることにして。そういえば、少し前に受けた血液検査で、婦人科の先生が興味深いことを言ってくれたことが蘇ってきました。女性ホルモンの数値がとても低い事だけでなく、脳から女性ホルモンをもっと出すように指令が出ている数値がやたらと高いのだと。残った卵巣は、最後の力を振り絞って生産工場で出してくれました。それでも使い切ってしまい、そのことが分からない脳は、もっと出せと信号を送り続けてくれているんだなと思うと、それはそれでちょっと笑えてきて。一緒に戦ってくれた卵巣にお疲れさまだね。
去年の離婚成立から1年経った日、もう少しいろんな気持ちが巡るかなと思っていたらそうでもなくて、裁判所の帰り道に寄ったカフェのケーキを全部買い占めたいと思った自分が頭を掠め、少しほっとしました。その日の夜、1ヶ月近くも自分の寝室の電気が切れていたものの、ベッドの灯りは点くからまあいいかととりあえず放置していた部屋のスイッチをなんとなくオンにすると、明るいライトがパッと点いて驚きました。このタイミングで照らしてくれた灯り、不思議なことが起こるものだなと嬉しくなった深夜。神様のいたずらだったとしたらありがとう。
翌日、新宿まで主治医のいる病院へ向かいました。気持ちも体もなんとなく重く、呼ばれたので診察室に入るといつもの先生がいて。それでも小さく感じた違和感、自分が弱っているからかなととりあえずやり過ごすことに。そして、最近の調子を聞いてくれたので、一連の不調を時系列で伝えると、深く頷き先生にしか出せない答えを伝えてくれました。私の手の中にあったのは選択肢が4つ。女性ホルモンを補充する為の注射、薬、貼付剤、そしてホルモン補充をしないということ。注射をしたことで一気に反動が来た。以前、少し強めの漢方を長期的に服用したことで酷い副作用に悩まされた私の体質を知っている先生は、ホルモン治療そのものがどれだけ負荷がかかるものか分かってくれていました。注射という選択はなおさらだったのではないかと。先生が何度も頭を悩ませ、辿り着き選んでくれた漢方はぎりぎりのところで今の自分を支えてくれていて、やはりそれで乗り切ろうと決めました。こちらの強い意思を感じてくれた主治医、すると思いがけないご自身の葛藤をぽろっと話してくれて。それでも患者さんの為に、その気持ちが絶対にぶれない先生の謙虚さと大きさを目の当たりにした時、自分の目の前で星くずがとんだように見えて驚きました。ほんの一瞬、心の中にあった黒くて大きな塊が小さく分解されて光となり、飛び散ってくれたような気がして。そんな簡単じゃない、それは分かっていても先生が寄せてくれた想いに救われました。10年後、この時の理由が分かるのかもしれないなと。
その日は1月17日、阪神大震災が起きた日でした。病院を後にし、つどいが行われる日比谷公園に短時間だけでも向かおうかと思ったものの、息子の帰宅時間もあったので、新宿駅南口、サザンテラスの前で立ち止まり手を合わせました。一つ息を吐き、また歩き出しました。今の私にできるのはこんなことぐらい、こうやってみんな立ち上がったんだなと。震災から3年後に初めて行った神戸、復興したその街の景色を忘れないでいようと思います。
電車に揺られ、少しずつ気持ちを上げて息子をお迎えに。貴重な栄養源であった納豆でさえ食べられない時があり、さすがに心配をかけてしまったなと、笑って一緒にお菓子を楽しみました。そして、宿題を見た後、返ってきたプリントには先生からのメッセージが。それを読んでわっとこみ上げそうでした。一週間ほど前、パソコンを開いた状態で、なんにも手に着かずぼーっとしていると学校からの着信が入りました。もう電話にも出られないようなメンタル不調、落ち着いてからコールバックしようか、でもそれだと先生の二度手間だと思い、深呼吸をして出ることに。すると、面談で質問を投げかけていたことについての回答を担任の先生が伝えてくれました。できるだけ明るく返事をして、お礼と共に電話を切った時間。そのやりとりにほんの少し違和感を覚えた先生は、ものすごい緩い変化球でこちらの心配を書いてくれていました。紙のやりとりなら、なんとか明るく振舞うことができた、でも電話は直接的なもの、そこでちょっとしたトーンの違いに先生は気づいてくれたよう。ついにバレたか!ともっと時間を巻き戻してみると、先生は4年生の春に行われた初対面での面談から気づいてくれていたのだと頭の中で繋がっていきました。相当な覚悟でいること、知っていますよ。これが先生の隠れたメッセージだったのだと。深くてあたたかい。
「先生ね、怒る時って関西弁になるの。」「何やってんねん!とか?こうやってせなあかんやろ!とか?」と私がそれっぽく真似をするとゲラゲラ笑いながら伝えてくれました。「そうそう。あんまり怒っているように見えなくなるんだよ~。」そんな息子は大阪に行きたいと言った。それは自分も次の目的地へと考えていた場所でした。でも、今のコンディションでは難しくて。ゆっくりギアを上げて行こうか。分解された星のかけらが、大阪にも飛んでいるかもしれない。