幸せだと感じる時

とても久しぶりに、いつものスタバで時々お会いしていたヘッドホンの男性からメールがあり、本当に驚きました。千葉へ引っ越すことを聞いていて、もしかしたらもうそれっきりかもしれないと思っていたからです。距離が離れたら、疎遠にもなるのはとても自然なこと。それをごく当たり前のように受け入れていたのですが、『もし機会が持てれば、またお会いできたら嬉しいです。』の文面を読み、なんだか胸がいっぱいになりました。切れそうなご縁を、こうして繋いでくれている。その気持ちを大切にしていきたいなと。
3月末にスタバでお会いした時、半日保育の息子のお迎えの為に挨拶もせずにバタバタと退店したことが、なんだか恥ずかしくなりました。こんな時に、何とも言えない小さな自信をもらえるような気がします。離れてもまた会いたいと思ってもらえるような相手でいられたということ。簡単に自信を無くしたらいけませんね。

せわしない週末、夫に息子をお願いしたら、二人で室内遊園地に6時間いたと聞いて、笑ってしまいました。本気で羨ましい。何をそんなに遊ぶことがあったの?我が家にはやはり少年が二人いるようです。そして、輪投げのゲームで怪獣の卵を持ち帰り、水に浸すと翌日産まれるんだとか。帰宅した私に息子が教えてくれました。「ボクね、卵を産んだの!」??説明がおかしくないか?!翌日の野球に行く前に産まれたらしく、息子は大喜び。小さな緑の怪獣は、我が家の仲間入り。

相変わらずの母。そんなに人は変わらないということは分かっているつもりですが、やはり心底情けなくなる時があり、息子を少しだけ振り回してしまいました。「おばあちゃんが困った人でごめんね。」そう言いながらハグをすると、「知ってるからいいよっ。」と半分諦めてくれたような、ボクがそう言うことでママが少しでも楽になるならと思ってくれてもいるようで、堪らない気持ちに。会ったら会ったで楽しいのだろうけど、ママを苦しめる人はいやだ、顔にそう書いてありました。この子を悩ませたらいけない、自分と同じような思いにはさせない、それでもあまりの包容力に救われる時があって、いつも甘えられているばかりではないのだと色々な気持ちがこみ上げてきて。一歩離れて息子を見た時、思いがけない強さを身に付けていて、はっとなります。いつもはわがままなのに、こんな時はびっくりするほど理解を示してくれる。毎日怒ってばかりいても、信頼関係ができていたのだと実感するひととき。

来年の3月で65歳の定年を迎える父に、どんな言葉をかけようか今から迷っています。簡単じゃなかった。娘として嫌なことも、苦しかったことも、それでも働き続けた父に助けられ、真摯に仕事に向き合う姿勢に沢山のものをもらったような気がしています。そんな気持ちを、ひと言で表現できるわけがない。「お疲れさまでした」なんだろうけど、私がいなかったらここまで来られなかったかもよ~の言葉でも笑いながらかけてしまいたい衝動に駆られます。
娘であり、友達であり、時に妻のような、父の前で何役こなしたのだろうと、それはそれで自分を褒めてあげることにして。全部を総括して、「家族を支えてくれてありがとう」多分、これがいい。

大学最後の講義は日本古代史。授業の終わりの鐘が鳴ったその時、ぐっと俯き涙を堪える友達がいました。青春がここで終わる。社会人になる、まさにその一歩手前。どれだけその瞬間を心に刻めるだろうか。
大学生活の中で、味わい深い時間を過ごせたからこそ見せてくれた、友達の溢れた横顔。