変化を求めること

息子の学校が半日だった日。短時間になるから今日はどうしようかと迷って、結局辿り着いたシェアオフィス。出遅れたこともあり、いつもの席が埋まってしまっていたので、窓際の席を選び落ち着きました。ちょうど角の席だったので、左隣には本棚があり、逆にテンションが上がってしまい、パソコンを開く前に本の背表紙に夢中。そこで気になったのが、『ときには好きなだけわがままになってみればいい。』(アルファポリス編集部・編)という一冊の本でした。その中で響いた“人生は動詞であって名詞ではない”(シャーロット・パーキンズ・ギルマン<作家・講師>)という一つの言葉。たった一行に心が動かされる、そんな本との触れ合いが好きなのだと改めて思いました。今日席が変わったのは、何かのサインかな。動き出せということ?

随分前、一凛珈琲の夜カフェで、プログラマーのMさんとミーティングをしたことがありました。そこで語られたその言葉に絶句。それは、阪神大震災のことでした。「私ね、震災後のテレビで、高速道路がなぎ倒され、1台のバスが半分近く浮いた状態になって映っていた映像を観て、言葉を失ったの。中学3年の時に見たあの衝撃がずっと忘れられないでいるよ。」そう伝えると、答えてくれました。「僕の実家、その近くだったんだよ。」と。あれだけ大きな被害があった地区。ご家族が無事で良かったとはいえ、周りの方達がどのような状態だったのかは想像がつきました。あのバスの映像を観たその瞬間から、Mさんに出会うのはもしかしたら必然だったのかもしれないなと思いました。彼によく言われる、出会うべくして出会った感じがするという気持ちも、今なら分かるような気がしています。

シェアオフィスでかかっているBGM。とても気に入った曲があり、どうしても気になってスタッフさんに聞いてみたら、CDではなく音楽配信サービスを利用していることが分かりました。まだまだこの辺りが時代について行けていないところ。カフェ・ミュージックチャンネルだということは分かったので、気長に探そうと思います。
そう言えば、オーストラリアでも同じようなことがあったと思い出しました。ホストファミリーの家で宿題をやっていたら、隣の部屋から聴こえてきた音楽が気になりだし、慌てて高校生の女の子の部屋へ。教えてくれたのは、Counting Crowsの『Big Yellow Taxi』でした。私が忘れてしまわないように、机にあったメモ用紙に書いてくれて、日本に帰ってからも聴いていた曲。その子もとても優しく、リビングでテレビを観ていたらいつも誘ってくれました。アニメの『ザ・シンプソンズ』を一緒に観て笑った時間。あの目が大きい家族を見るだけで蘇るひととき。

まだ実家にいた頃、大学の友達と一泊の旅行へ出かけました。その日は大雨。翌朝、旅先からテレビを観ると、実家の近くを流れる川が氾濫しそうだということで、慌てて母に電話を入れると、散々怒られ疲弊しました。どうしてこんな時に旅行なんかするのだと。それは、私を心配する内容ではなく、こういった状況の中で自分を置いて行ったことに対しての憤りでした。慣れている、そんな思いは山のようにしてきました。それでも、一歩外に出て、違う世界から見た自分が置かれている立場に、情けなさが埋め尽くされました。帰宅すると、車庫が少し水に浸かってしまったらしく、そんな中でも自宅は無事だったことに安堵。後日、大学へ行くと、ゼミの教授が学生に対して伝えてくれました。「この間の集中豪雨で、レジュメなどが水に浸かってしまった人は、気にしないで報告してほしい。被害を受けた家庭もあったと思う。大学側から言われているんだ。まずは学生さんが無事でいることが何よりで、学習の資料がダメになってしまった場合、最大限のフォローをしてほしいと。言いにくかったら後でもいいから、言いに来てほしい。」「先生~、私の家、車庫が少し浸かりました。」「えっ?どの程度?」「20cmぐらい。」そう話すと、どっと笑いが起き、そんなやりとりで沈んでいた風船が、笑い声と共にパンと割れたようで。私が好きな大学がここにある。