これからのこと -長編-

この間、名古屋から父が来てくれたので、そのタイミングで、思い切って母に会いました。大泣きされることを想像していたのですが、思いがけず普通でいてくれたことに、母の変化を感じ、ほっとしていて。
「お久しぶり。」母のこのひと言が、1年半の時間をあっさり埋めてくれたようでした。親子とは、不思議なものです。

理不尽な思いを沢山してきて、今度会う時は相当な覚悟が必要だと、鉄壁の心がないと自分は守れないと思っていたのですが、父と夫がそのことを理解し、そっとガードをしてくれていることで、前ほどの不安も無くなっていて。

何より、この期間で何度ももらった母からの手紙。最初は読む気になれなかったのに、だんだんと開くことができるようになったのは、母のことを許し始めていた証拠だったのかも。私なりに色々と調べて、精神疾患と気質のはざまは、難しいということが分かりました。おそらく母は、まさに間にいたのだと思っています。そして、本人はそのことを自覚し、唯一の拠り所だった私を追い込んでしまったと反省してくれました。
あとは、私の中で、不安感や小さなトラウマや失われた時間を、消化するだけのこと。決して簡単ではないけど、跳ねのけるだけの力は持っているでしょって奮い立たせてもいて。そうじゃなかったら、ここまで来られなかったと思うから。

1年半前、とんでもない修羅場の前段階で、姉も色々な情報を集め、私に電話をかけてくれました。「Sは、どんな思いをしても、お母さんから1度も逃げなかった。100人いたら99人が逃げ出すような状況の中で、たった1度も逃げ出さなかったの。Sは強すぎたの。だから、自分がボロボロになっていることに気づかなかったんだよ。今までよくやったよ。お母さんのことはお父さんに任せればいい。もう都合のいい娘にならなくていいんだよ。逃げなさい。」

その言葉を聞いた時、とめどなく泣けてきて、姉にとってやっぱり私だけが家族だったのだと、その気持ちが嬉しくて切なくて、同時に沢山の戸惑いが押し寄せてきました。逃げるという選択肢は私には無かった。そんなことを考える隙間さえなかった現実がそこにはあり、そして、放っておけなかった優しさが自分を追い込んでいたということ、それだけではなく、母との絆をいつもどこかで感じていました。

逃げなかったのは、自分の意志。だから、母を責めても何にもならない。人のせいにするのは簡単だけど、自分で決めたことなら、もっと胸を張って生きられるよね、そんなことを1年半の間に思いました。37年間、よくやった。母の人生を生きていたけど、その中で沢山の方達に出会い、助けられた。それは紛れもない事実で、とても幸運なことなのだと思います。

母に久しぶりに会い、前のような負のオーラを感じませんでした。私といて居心地良さそうにしている姿を見て、構えてしまったけど、やっぱりどこかで嬉しくて。だから、入院も父に任せるだけでなく、車で送りました。こんな時は、やっぱり女性の存在が心強いことを知っていたから。

入院初日は、たまたま息子もお休みで一緒に病院へ。父は息子を見ているからと、私は母のお世話をすることに。
改まって二人で話すよりも、せわしなく動いていた方が、気が紛れてちょうど良くて。祖母や祖父の入院をふと思い出して、色々な思いがこみ上げるのをぐっと抑えていたら、遠くから、「目玉焼きがない!」と息子の声が。
談話室で父と待っていた息子が、しまじろうのレストランセットに目玉焼きが無くなっていることに気づき、ひと騒動。一緒に探している父の姿を見て、笑ってしまいました。やっぱり連れてきて良かった。戦力にはならないけど、男子二人がこんな時は癒される。

その日は、雑用も終わり、母が看護師さんに呼ばれていたので、明日必要なものをまた届けるからと父に伝言し、解散。その後、父から電話が入り、「お母さんが入院先まで来てくれて、とても喜んでいたよ。送ってくれてありがとう。きちんとお礼が言えなかったから伝えておいてと言われたよ。」その言葉だけで、一日の疲れが吹き飛びました。もしかしたら、37年分のわだかまりまで吹き飛ばしてくれたのかも。
母は私が何かをするのが当たり前だと思っていて、お礼をほとんど言わない人。父も伝言が面倒で、メールで簡潔に伝えるだけの人でした。その電話は、二人の温もりが間違いなくそこにありました。

姉は二人に切れたことがあって。「Sはあなた達の駒じゃない。都合のいい時だけ使おうとしないで。」と。そんな頃もあっただろうなと思います。でももう違う。その電話が何より私を安心させてくれました。人は変われる。1年半離れたことを、意味のあるものにするために。

翌日、息子を幼稚園に預け、母宅に必要なものを取りに行き、大量の水を買って、隣の市の総合病院へ。母は手術中で、説明を医師から受けた父は、ことの重大さに改めて気づいたよう。両膝に金属を入れる大掛かりなもので、右から行い、一度退院して、1か月後に左の手術。どうしてもリスクは伴うようです。
父とよく話し、あと1年半程経ったら、65歳で退職し、こちらに来ると。私が、「お父さん、こっちに来る?」と聞いたら、「もう、来ないと行けないだろう。」と言っていました。そこには色々な意味があるのだと思います。母の為に、私の為に、そして、自分の為に。でももっと驚いたのは、関東にも仕事関係の友達がいて、65歳を過ぎてからも仕事を紹介してもらえそうだということ。
お父さん、本当に現役でいたいんだね。その姿を見届けたいと心から思いました。だから、私にできることは、無理なくやらせてもらうよ。

そんな理由から、今まで週4回、月水木土曜日に更新していた記事を、今月から月水金曜日の3回にさせて頂こうと思っています。バランスが大切だと偉そうなことを言っていた私が、バランスを崩してしまってはいけないので、少しだけスピードを緩めさせてください。ここにいます。そして、私は大丈夫だと伝えさせてください。

入院初日、自宅に帰ると、慌ててリビングのおもちゃコーナーに行った息子が、「目玉焼きあった~!!」と喜んでいました。そして、「おじいちゃんに、あったよ~。と伝えておいてね!」と。心配をかけるだけでなく、安心させる気持ちも忘れない息子に、和ませてもらっています。
週3回になるだけで、何も変わりません。24時間オープンなことも、安らぎの場所でありたいと願う気持ちも。だから、これからもよろしくお願いします。