生きること

ようやく自分の新しい戸籍ができる日、また市役所へ行ってきました。必要事項を記入し、窓口に出した後、呼ばれるとそこには新しい戸籍謄本が出来上がっていて、ぐっときて。よく見ると、名古屋市中村区で生まれた記載もあり、まるで年表のようだなと嬉しくなりました。途中で関ヶ原の戦いもあって、これからは文明開化?!なんておばかなことをあれこれ考えていたら、思わず笑ってしまって。また新しい歴史が始まる。

その後、銀行関係にも色々な変更の手続きに行き、学校の防犯パトロールに出かけ、息子をお迎えに行き、ようやく落ち着いた夕方、ひとつのメッセージが入りました。誰だろうと何気なくスマホを手にすると、マブダチK君からのものであることが分かり画面をタップ。『こんにちは。本日の深夜に母が他界しました。Sにだけは一応お知らせまで。』その文面を読み、絶句。わっといろんな想いがこみ上げ、溢れ出そうな涙を息子の前で堪えるのが大変でした。なんで今日なんだ、おばさんは私が新しい道を歩き始めるのを見守ってくれていたのかなとも思うと胸が詰まって。10年以上ぶりの再会を果たしたK君から、おばさんが抗がん剤治療を頑張っている話を聞き、ご健在だったことに安堵し、その後メッセージを送りました。『今日、K君に11年ぶりぐらいに会い感激の時間でした。おばさんの治療、心から応援しています。どうか、お元気でいてくださいね。おばさんから可愛がってもらったこと、ずっと大切にします。』すると返信が。『Sちゃん、お久しぶりです。がんの治療はしていても仕事もテニスも頑張っています。楽しんでいます。Sちゃんにとっても、いい人生でありますように。』どこまでも優しい人。そして、母の日にもう一度送ることに。『おばさんは私にとって心のお母さんです。高校の時からいつもやさしい言葉をかけてくれてありがとう。治療、大変だと思うけど、おばさんが一生懸命生きている姿、私も見習って頑張ります。体に気を付けてね。』『有り難う。体調良くも悪くも頑張って生活しています。Sちゃんに笑われないよう、生きないとね。明日も抗がん剤治療頑張ってきます。』これが最後のメッセージになるなんて。おばさんはどんな時も輝いていた、それを私は知っている。

いつものように慌ただしく夕飯準備を済ませ、宿題を見て、ようやく湯船に浸かると次から次へと色々な感情が押し寄せ、涙が止まりませんでした。高校1年から遊びに行く度、ウェルカムで迎えてくれたおばさん。二十歳の誕生日、もうこんな家にはいたくないとボストンバッグを抱えて、K君の家に行くと、私の誕生日を覚えていてくれた彼は、笑いながら自分の部屋に招き入れてくれました。事情を聞き、一睡もしていない私を寝かせてくれたK君。俺はバルコニーにいるからと、一人にさせてくれた後、誰かがドアを開けた音がしました。私が寝ていることに気づいたおばさんは、なんとなく事情を察知し、そっと閉めてくれたことが気配から分かって。その時の動作がどれだけ優しかったことか。気持ちが休まるまでいつまでもいていいのよ、そう伝えてくれているようでした。それから、時が経ち、回数は減っても時々遊びに行く度に、同じ温度で迎えてくれました。その時にプレゼントしてくれた赤のペンケースは、ずっと私のそばにいて、まさか形見になるとは。どんな思いで、K君の大学中退を応援しようとしていたのか、私にだから話してくれたおばさんの思いを、落ち着いた時彼に伝えに行こうと思っています。自分のやりたいように生きればいい、後悔のない人生を送ってほしい、それでもあの子が道に迷いそうな時は、Sちゃん、あなたが話を聞いてあげてね。きっとすごく助けられると思うから。おばさんの穏やかな声が、頭に降り注いだ。彼の芯は、どんな時も太くあたたかいのは、お母さんのこんな愛が詰まっているからなのだと思いました。とても自然で、とても尊い。
それにしても、深夜におばさんが亡くなった当日に、連絡をくれるとはどこまでも彼らしい。「俺にとってお前が特別なように、おかんにとってもSは特別なんだよ。いつも元気かって聞いてくる。幸せでいてくれたらいいって。」そんな言葉を思い出して、また涙が溢れた。『母の日におかんにメッセージを送ってくれてありがとな。』そういったメッセージも思い出した。だから彼は、どんなに辛くても当日に連絡をくれたんだなと。私とおばさんの間に流れていたものを知っていた。
お風呂から出て、息子と遊び、ようやく寝かしつけてカレンダーを見ると、明日は祖父の誕生日だと気づき、また泣けてきました。生と死。こんなに考えさせられる日になるとは。途轍もなく深くて。

高校2年、クラスの離れたK君は校舎内でタバコを吸って停学。その後、反省文を持ち、おばさんと二人で学校へやってきました。その時のおばさんは、とても毅然としていて、どんな時も凛とし、綺麗な方だなと思った。「おばさんを悲しませることは二度としないで!あんないいお母さん、なかなかいないよ。」とブチ切れモードでK君に説教。反省はしていたものの、彼の髪の毛の色は茶色のままでした。42歳で再会した名古屋で、その話をしてみることに。「高校の時さ、ずっと茶髪だったよね。あれってもしかしたら、常に受験モードだった先生達に対する反発心だったのかなって。俺達を縛るなよってみんなの気持ちを総括してくれていたんじゃないかって、大人になって思ったの。」そうすると顔の前で手をひらひらさせながら、笑って伝えてくれました。「そんないいもんじゃないよ。髪の毛の色を変えたら目立つだろ。ただ目立ちたかっただけだよ。それだけガキだったんだよ。」そんなK君は、これでもかというぐらい情の深い人間になっていた。理想の母親像を見せ続けてくれたおばさんの他界。私の中でこれからも生き続ける、間違いなく。「Sは俺のおかんか!」と何年後か先に彼に言われたら、上出来。