わくわくが止まらない

何気なくSNSを見ていた日、あるニュースが飛び込んできました。それは、大谷選手が日本の小学校に3つずつグローブを寄贈するというビッグニュースでした。『野球やろうぜ!』のメッセージを見て、胸が熱くなった時間。そして、テレビで息子もそのニュースに気づき、歓喜!「ええっっ!ボクの小学校にも届くの?!」「きっと届くと思うよ。」「なんかすごすぎて・・・。それにしてもなんで3つなんだろうね。」「右利き用のサイズ違いのグローブが2つと左利き用が1つなんだよ。みんなが使えるようにっていう大谷選手の配慮なんだと思う。」「本当に感激しちゃうね。小学生で良かった!ママも、左利き用があって良かったね!」「お母さんは使えないけど、Rがその分直接見て、大谷選手の気持ちを受け取ってもらえたら嬉しいよ。」野球しようぜ!我が家の場合はすでにしているから、野球続けようぜ!が合言葉かな。大谷選手、一生心に残る宝物をありがとう。

左利き用のグローブと言えば、思い出す出来事がいくつもあって。高校の時、別の高校に通っていた野球部男子君といい感じになり、伝えてきました。「俺さ、好きな子とキャッチボールをすることが夢なんだ。」と。それを聞き、左利き用の安いグローブを買って、近くの小学校で壁相手にピッチングの練習をすることに。その後、バレンタインの時期になり、手作りのチョコを渡すと、怪我で故障していた彼は落ち込んでいる時期で、野球に専念したいんだと申し訳なさそうに言われました。自分が足かせになってはいけない、そう思い、笑って離れることに。精一杯の強がりでした。その後も、せっかく手に入れたグローブだから、勉強の合間に練習しようと小学校に通いました。そんな姿をずっと見ていた姉は大阪へ。大学受験で、その当時ネネちゃんの男友達であった今の義兄が通っていた大学の入学を考えていると知った姉は、彼に連絡。そして、私の実家に電話を入れてくれました。せっかくだから、キャンパスを案内するよと。その気持ちがとても嬉しかった。そして、待ち合わせの時間に、大学の正門前で待っていてくれた義兄。挨拶をし、よく見ると野球道具を持っていて笑ってしまって。どうやら、ネネちゃんから私の野球好きを聞いていたらしく、学内を案内してからキャッチボールをしようと誘ってくれました。ずっと訳の分からない状態が続いていた実家、妹を置いて大阪に就職してしまった、こっちで受験しないかと声をかけても断ってきた、妹は一人で背負い込むつもりなのではないか、だったらせめて世界を広げたい、そんな姉の気持ちが彼を通して伝わってきて、緑の多いキャンパスで胸がいっぱいでした。その後、渡してくれたグローブは右利き用。そこまで情報は行っていなかったのだと笑えてきて、それでも左手にはめてキャッチした後、グローブを外して左手で投げて、快晴の空の下気持ちのいい時間が流れました。そこで歩いている、少し未来の自分が想像できて。道が拓けた忘れられない1日でした。
それから数年後、姉と義理の兄が婚約。草野球に誘ってくれたので、ネネちゃんと応援席に座ると、一塁側からフェンス越しに彼が声をかけてくれました。「Sちゃん、これからウォーミングアップするんだけど、一緒にキャッチボールする?」「行く行く~。」と言って喜んで一塁ベンチ前まで行くと、また左利き用のグローブがないことが判明。前回と同じように、右利き用のグローブをはめ、他の選手達に茶化されながらユニフォーム姿の義兄とキャッチボールをしたら、キャンパスでのことが思い出され、堪らない気持ちになりました。二人とも婚約おめでとう。お兄ちゃんになってくれてありがとう。

そして、高校時代の体育の授業では、選択制だったので喜んでソフトボールを選びました。男女混合チームで、ダンボールに入ったグローブを一人ずつ持って行く中、左利き用のグローブが3つだけ入っていて1つが猛烈にボロボロだったので、左利きの野球部男子二人といつも争奪戦に。そして、それに負けると本気で年季の入ったグローブを仕方なく使っていました。サウスポーでもセカンドを守りたいとチームのみんなに言うと、分かってくれて喜んで内野の守備へ。そして、左のバッターボックスに立った時は、必ず私が引っ張った当たりをするのを知っていたショートを守る野球部男子が、わざわざ女子が守るセカンドのポジションまで来て、華麗にキャッチするので、いつもセカンドライナーに終わっていました。厳密に言えば、ショートライナーなのだけど、あれはセカンドライナーじゃ!!その後、甲子園予選で大活躍をしたエース君と仲良くなり、一連の話をぶちまけて。「左利きの野球部男子に使いやすいグローブは持っていかれるし、セカンドのポジションまで来て、してやったりの顔でライト前ヒットの当たりをキャッチされるし、もうどういうこと?!女の子にもっと優しくしましょうよ~。」と言うと、爆笑してくれました。彼もまたサウスポー、気持ちのいいキャッチボールがそこにもあった日。大谷選手の左利きグローブ寄贈で、高校時代のボロボログローブ事件が思い起こされ、なんだか嬉しくなりました。

改めて、WBCの感動も連れてきてくれて、ふと一塁コーチにいた清水雅治外野守備・走塁コーチの顔が頭を過り、時が経ち急に気になりだしたので調べてみることに。すると、1989年から1995年まで中日で活躍されていたことが分かり、現役時代の写真を見てみると、あっ!とその当時の記憶が蘇り、泣きそうになりました。自分が中学の頃、ドラゴンズのユニフォームを着てナゴヤ球場で活躍してくれた選手、巨人との優勝争いで最終戦までもつれ込んだ10・8決戦の時も、1番左翼手として出場されていたことが分かりました。ドラゴンズのブルー、ナゴヤ球場で見たもの感じたものは私の青春でした。その中学時代に、清水コーチが活躍されていたことが今になって分かり、野球はずっと自分のそばにいたのだと感無量に。その清水コーチが名付けた“たっちゃん”こと、ラーズ・ヌートバー選手のピンバッチはいつも私のバッグに付いていて。繋がったよ、大谷選手が繋げてくれるものは、きっと果てしない。