運動会も無事に終わり、ラグビーワールドカップ、大事な大事な戦い、アルゼンチン戦がやってきました。試合開始前の時間に間に合うように、あらゆることを済ませ、息子とテレビの前へ。「この試合に負けたらそこで終わってしまうの。勝ち上がれるように応援しよう!」「今日は時差があっても観られる時間で良かったね!8時から応援するよ!!」とどんどん熱は上がっていきました。そして、君が代を聴き、キックオフ。魂と魂がぶつかり合う試合展開に、なんだかもう泣きそうでした。
シェアオフィスで出会ったラガーマンTさん。初対面の時から、彼の中にある熱いものを感じていました。真っ直ぐに生きてきた人、そんな印象を持って。その後、仲良くさせて頂く中で、卵巣がんの疑いが発覚、休会の手続きをしたらその理由を伝えることになり、心配をかけてしまうのではないか、何より早く戻ってこられることを願い、誰にも言わずにロッカーに荷物も置いたままで手術日を迎えました。異変を感じたTさんは、唯一の手掛かりであるこのサイトを訪れ、状況を理解。そして、一緒に戦った元のチームのメンバーにサインをお願いし、隙間のない程書かれたジャージーを贈ってくれました。それは私の宝物で、いつも挫けそうになると、その時のことを思い出し、不思議な力が湧いてくるようでした。そして、今回のワールドカップ、日本代表のメンバーにTさんがかつて所属し、ファンクラブにも入っているチームの選手が選ばれ、改めてジャージーを見てみると、そこにはファーストネームで書かれた応援する選手のサインがありました。その選手は、ワールドカップで躍動。ボールを持ち、果敢に攻めるそのプレーを見て、息子の心に情熱の火が灯りました。その熱は、私が4年前の日本開催で灯った炎と同じような温度をしていて。「○○○~!!」歓喜と泣きそうな声が入り混じったトーンで息子が叫んだ時、Tさんはとんでもないプレゼントを贈ってくれたなと本気で泣きたくなりました。いつか自分が亡くなる時は、そのジャージーを息子へ。どれだけ時が流れても、受け継いでいってほしいなと。そして、敗戦に終わった後も、立ち向かっていった選手達の強いハートと、強靭なフィジカル、そしていつかまた歴史を作ってくれるそんな未来を願い、私も頑張ろうと思いました。Tさんには、随分前、いずれ名前が分かってしまったらごめんなさいと伝えた時に、「いいっすよ!」とカジュアルに言ってもらっていたのですが、どんな形で迷惑をかけてしまうか分からないので、とりあえずチーム名は内緒。それでも、過去の記事でキーワードは残してあるので、息子が叫んだ名前も分かる人には分かると思います。チリ戦の後にかかっていた『とんぼ』、『乾杯』(作詞作曲:長渕剛)。何人もの選手が好きな曲で、日本人選手もみんな知っているから流してもらうように代表選手がお願いしたのだそう。選手やスタッフ、そしてブレイブブロッサムズを応援する全ての方の心に優しさが流れ、ひとつになった時間だったような気がしています。日本代表のみなさん、溢れ出る感動と絶えることのない勇気と前へと向かう強さをありがとう。日本ラグビー、どんな時も応援しています。4年後はオーストラリア開催、その時を夢見て今日も進む。
そういった感動を胸に、また新宿まで主治医のいる病院まで行ってきました。息子がコロナ陽性になり、でも自分は大丈夫でしたと話すとぼそっと伝えてくれて。「強いな。」と。気圧の変動も寒暖差も冷えも、あらゆることに敏感で長年の頭痛や不定愁訴に悩まされていることを知っている先生。それでも、意外な時に強さを発揮することに気づいてくれている主治医のひと言に、なんだかぐっときました。そして、インフルエンザの予防接種の相談をし、その場で打ってもらうことに。看護士さんが用意してくれた用紙に必要事項を記入し、どちらの腕に打とうか聞いてもらえたので、右でお願いしますと伝えると、「右でいいの?」と不思議そうに聞かれ答えました。「私、左利きなんです。」「え?本当?!」先生の目の前で、右手でペンを走らせていたのでそのリアクションは納得。「元々全部左利きだったんですけど、箸と鉛筆は右手の方が困らないだろうとその当時の幼稚園の先生に言われて、仕方がないので右手で持っていたんです。」そう話すと、主治医の頭の中でスーパーコンピュータが動き出し、一瞬の間があった後伝えてくれました。「それって人によるんだけど、元々左利きの人が小さいうちに右利きにしようとすると、言葉を発するのが遅れたり、混乱することもあるんだよ。」・・・。そう言われ、いろんなことが一気に繋がって、そこに気づいた人がいてくれた事実にわっとこみ上げ、全身から鳥肌が立ったことを主治医は見逃しませんでした。「そうです、きっとそうなんです。今でも多分ちょっと混乱しています。」そう話すと、何か先生の中でも繋がってくれたようでした。私が少し特殊な思考回路を持っている理由にも、医学的に気づいただろうなと。そして、質問してくれました。「左手で書こうと思ったら文字を書けるの?」と。この質問をしてきたのは、ネネちゃんの次に二人目。「ひらがななら書けます。」そう話すと、頷き、先生の中で答えを探しているようでした。そういうことか、なんだかお互いにストンと落ちるところがあり、お礼を言ってその場を後にしました。新宿駅近くのカフェに入り、改めて思い出した出来事。
そこは二十歳の時にアルバイトをした日本料理店の中でした。一緒に働き、後に小料理屋を出したママが、社会人になった私に伝えてくれて。「Sちゃんが学生で入ってきた時、どこかで言葉を発するのに戸惑っているような印象があったの。自信のなさからかなとも思ったんだけど、最近はそういったことがなくなったね。」ママはちょっとした違和感に気づいてくれていたんだな。左脳と右脳がフル回転していて、いつも脳が疲れているのかなとも思う。だから、睡眠がまともに取れないと一日機能しない、でもそれだけじゃなくて、うまく言えないけど、誰かの困難さが分かる。種類が違うものであっても、説明のつかない辛さに寄り添いたいと思った。それは今までも、これからもそう。すごく考えて、自分の中でかみ砕いて思いを発するという習慣が良くも悪くも子供の頃からあって、だからこそ、言葉の重みもなんとなく感じていて、それが本当に誰かの心の奥深くに沁み見込んでくれていたら、この仕事を選んで良かったなと改めて思いました。だから、何度だって伝えたい、自分の為に笑ってください。今日は、さくらdeカフェで長渕剛さんの『とんぼ』でも流そうか。